筑前:高鳥居城址(たかとりいじょうあと)
住 所 :福岡県糟屋郡篠栗町若杉
築城者 :河津貞重
築城年代:永仁元年
形 式 :山城
遺 構 :曲輪・土塁・堀切・石碑
指定史跡:未指定
訪問日 :令和02年03月15日
築城者 :河津貞重
築城年代:永仁元年
形 式 :山城
遺 構 :曲輪・土塁・堀切・石碑
指定史跡:未指定
訪問日 :令和02年03月15日
歴史
高鳥居城は永仁元年に九州探題北条兼時(ほうじょうかねとき)に従って筑前入りした河津重貞が築城したと記されている。
杉氏が城主時代の天正十五年に薩摩:島津氏の九州制覇の軍が立花山城を目がけて侵攻するとそれに伴い高鳥居城近郊の宝満山城と岩屋城が落城し遂に高鳥居城にも島津軍が押し寄せる。高鳥居城には八百の兵が籠城するが、島津軍は数万と多勢に無勢の末に武運虚しく落城してしまう。
この時の城主:杉禅正の子と乳母は難を逃れる途中追手の手により打ち取られてしまう。(この話が後の守母神社の由縁となる)島津氏の所領となった高鳥居城だが九州征伐の軍を編成した豊臣秀吉が九州に侵攻すると島津軍は早急に軍を薩摩に引き上げるが高鳥居城には島津氏家臣・星野吉実(ほしのよしざね)・吉兼(よしかね)の兄弟が立て篭もり立花山城:城主の立花統虎(たちばなむねとら)の軍と激戦を繰り広げるも落城し星野兄弟は討ち死にした。
この戦いを「高鳥居城の戦い」とよび星野兄弟他、三百余名全てが戦死した。
後の名将:立花宗茂はこの時十九歳の美少年として出陣し手柄をあげている。
その後高鳥居城は廃城となった。