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筑前:岩屋城址(いわやじょうあと)

住 所 :福岡県太宰府市浦城
築城者 :高橋鑑種
築城年代:天文年間
形 式 :山城
遺 構 :土塁・堀切
指定史跡:未指定
訪問日 :令和元年06月28日

歴史

岩屋城は天文年間に宝満山城の支城として豊後の大友氏家臣:高橋鑑種(たかはしあきたね)により築城された。
鑑種は主君:大友宗麟(おおともそうりん)の傲慢な振る舞いに反旗を起こすが城を追われる形となり高橋氏は没落する。
これに伴い吉弘鎮種(よしひろしげたね)が「高橋」を継ぎ高橋紹運(たかはしじょううん)と名のり岩屋城主となる。
だが天正十四年に悲願の九州制覇に向け進軍して来た薩摩:島津氏が耳川で大友氏を打ち破るとその勢いで大友氏領土へ侵攻し島津軍は岩屋城に押し寄せた。
大友氏本軍も苦戦を強いられ岩屋城に援軍を送る事が出来ず孤立状態に陥った紹運だが島津氏からの降伏勧告を拒絶し籠城する。
この時紹運は約七百六十三名の兵と共に奮闘するが秀吉の救援が来る前に岩屋城は陥落し紹運は自害してしまう。
その後島津軍は宝満山城も落城させ進軍するが紹運の実子で、後の名将:立花宗茂(たちばなむねしげ)が籠る立花山城 を攻略出来ず秀吉の救援が到着すると島津軍は撤退し島津氏の夢はここに潰えた。
後に岩屋城攻略に苦戦を強いられた事が島津氏の九州制覇達成へ大きな妨げになったと云われている。

現在

現在の岩屋城址は岩屋山中腹に土塁等の遺構を残している。
本丸址に在る石碑は岩屋城の籠城戦の凄まじさを物語っている。
今この城址は展望台のようになっているが、その昔ここで九州の歴史を担う戦があったのだと思うと歴史的な場所だと言えるだろう。
もし紹運が生き延びていたら大友氏の結末も変わったはずだと云われている。
この地に来たら是非、城跡から道を隔てた場所にある「高橋紹運の墓」にも足を運んでみると良いだろう。

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