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肥前:原城址(はらじょうあと)

住 所 :長崎県南島原市南有馬町乙
築城者 :有馬貴純
築城年代:明応五年
形 式 :平山城
遺 構 :石垣・空堀・曲輪
指定史跡:国指定史跡
訪問日 :平成18年09月25日
  • 国指定史跡
  • 続日本100名城

歴史

原城は明応五年に有馬貴純(ありまたかずみ)が築城した海に囲まれた堅城だ。
この地域は半島で城全体が半島に覆われている造りだった。
有馬氏はこの地で長く栄えていたが慶長十九年に延岡へ転封すると松倉重政(まつくらしげまさ)が近隣の日野江城に入城するも、日野江城は交通の便が悪く更に元和元年の一国一城令なども重なり新たに島原城を築城し日野江城、原城は廃城となった。
だが松倉氏はこの地で暴政を振い更にキリシタン弾圧を行った為にキリシタンによる反乱が寛永十四年に勃発する事となる。これが世に言う「島原の乱」である。
一揆軍の総大将には小西行長(こにしゆきなが)家臣の子孫と言われる神童:天草四郎が選ばれ、四郎率いる一揆軍が原城を修繕して篭城を行った。
天草四郎は幕府の鎮圧軍を相手に互角に渡り合うが、 寛永十五年に幕府軍老中:松平正綱(まつひらまさつな)率いる十二万の大軍を前に滅ぼされてしまい反乱は鎮圧された。
反乱鎮圧後は政府軍によって原城を徹底的に取り潰し城は破却され 反乱勃発の責任を問われ重政の嫡男で島原藩藩主:松倉勝家(まつくらかついえ)は斬首となった。

現在

現在の原城址は石垣や曲輪などを残している。
「島原の乱」の後に幕府軍は原城を粉々に取り壊したと言われている通り櫓などは跡型もなく壊されている。
だが石垣などの遺構は現在も発掘調査中で出土品も多く発見されている。
日本最大規模の一揆が勃発したとは思えないくらい有明海の景観が素晴らしい場所でもある。

続日本100名城スタンプ設置場所

原城跡総合案内所
有馬キリシタン遺産記念館

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