筑前:立花山城址(たちばなやまじょうあと)
築城者 :大友貞載
築城年代:元徳二年
形 式 :山城
遺 構 :石垣・古井戸・曲輪・土塁
指定史跡:未指定
訪問日 :令和02年10月11日
歴史
立花山城は元徳二年に大友貞載(おおともさだのり)が築城した。
貞載は後に地名から姓を「立花」とし大友氏の有力な家臣として立花山城の守護として居城するが、永禄十一年に大友氏の有力家臣:秋月、高橋の二氏が大友氏に叛くと立花鑑載(たちばなあきとし)も大友氏を離脱し毛利元就(もうりもとなり)と共闘する。
当時の城主:大友宗麟(おおともそうりん)の暴君が原因とされ内部は崩壊状況にあり家臣の離脱が頻繁に行われていた。
だが立花鑑載の離脱に宗麟は激怒し同年に三万の大軍で立花山城を落城させ鑑載は自害した。
その後立花山城は毛利氏と大友氏の激戦地となるが、元亀元年に宗麟は戸次丹後守鑑連に立花氏を継がせ立花山城主とし鑑連は名を立花道雪(たちばなどうせつ)と改名する。
その後も立花氏の居城として栄えるが薩摩:島津氏の九州制覇で大友氏が弱体化すると、島津氏は立花山城へ進軍し戦となるが当時弱冠二十歳の城主:立花統虎が応戦すると激戦の末に落城は免れ島津氏は豊臣秀吉の援軍の前に薩摩への撤退を余儀なくされた。
九州征伐後に九州も秀吉の管轄下になると秀吉の命により統虎は、柳川城主となり立花山城には小早川隆景(こばやかわたかかげ)が入城する。
隆景は名島城を築き主城とすると立花山城は徐々に価値を失うと慶長六年に黒田長政が筑前国に移封されると福岡城を築城し立花山城は廃城となる。
現在
現在の立花城址は立花山山中に古井戸と石垣、山頂付近に曲輪・土塁・古瓦などが遺構として残している。
石垣は立花山登山口から進んで行くと所々で確認する事ができ特に山頂付近から松尾岳方面に進むと多くの石垣を残している。
立花山城は立花山七峰の最長峰である井楼山を本丸とし七峰全体が城として機能していた事が伺えるほど多くの遺構を残している。
巨大な防衛能力を誇る城址の遺構を楽しめる山だが今では地元の方がハイキング目的として登山を行っている。