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筑後:柳川城址(やながわじょうあと)

住 所 :福岡県柳川市本城町
築城者 :蒲池治久
築城年代:文亀年間
形 式 :平城
遺 構 :天守台・石垣・堀・水門
指定史跡:国指定史跡
訪問日 :令和02年02月02日
  • 国指定史跡

歴史

柳川城は「柳河城」とも呼ばれ文亀年間に蒲池治久が築城した。
その後も蒲池氏(かまちし)の居城として栄えていたが、天正六年に鑑盛(あきもり)が天正九年には後継ぎの鎮並(しげなみ)が相次いで死去し蒲池氏は滅亡してしまう。
天正十五年に起きた九州征伐後に九州は豊臣秀吉の管轄下になると 筑前立花山城城主:立花宗茂(たちばなむねしげ)が柳川城に入封するが慶長五年に起きた「関ヶ原の戦い」で宗茂が西軍に味方した為に改易となる。
その後に田中吉政(たなかよしまさ)が三河から移領し柳川城を本城とした。
吉政は柳川城・久留米城などを修築するが元和六年に二代目城主:忠政(ただまさ)が死去すると田中氏は無嗣断絶となる。
そこで柳川城には一度改易された立花宗茂が再び入封する。
宗茂は改易後も徳川政権での評判が高く、柳川領民からもかなり慕われていた為に異例の返り咲きであった。
その後立花氏十二代の居城として明治時代を迎えた。
蒲池氏時代に起きた大友氏との戦の最中に大友氏陣中で 「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」の戯れ歌が有名で 柳川城攻略には三年掛かると言われる程の難攻不落の名城でもあった。

現在

現在の柳川城址は柳城中学校グランドの片隅に天主台などが残っている。
明治時代初期には天守閣を誇り柳川特有の川を利用した天然の要害であったが、 火災や台風によって遺構の多くは壊滅してしまった為に柳城中学校と柳川高校の間に石垣などが多少残る程度になっている。
昔は五層五階の天守閣を要する城にしては多少残念だが天守台も確認する事ができ近年では柳川城復元に向けた動きもある様だ。
また近くには柳川城水門や柳川川下りの川もあり観光地としても有名な場所になっている。

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