肥前:名護屋城址(なごやじょうあと)
住 所 :佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3
築城者 :豊臣秀吉
築城年代:天正十九年
形 式 :平山城
遺 構 :石垣・空堀・井戸跡・曲輪
入場料 :清掃協力費として100円
指定史跡:国指定特別史跡
訪問日 :令和元年09月06日
築城者 :豊臣秀吉
築城年代:天正十九年
形 式 :平山城
遺 構 :石垣・空堀・井戸跡・曲輪
入場料 :清掃協力費として100円
指定史跡:国指定特別史跡
訪問日 :令和元年09月06日
歴史
名護屋城は豊臣秀吉が朝鮮出兵への軍事拠点として配下の諸大名に築城した事で有名だが、元は松浦党波多三河守親家臣:名護屋筑前守経述(なごやちくぜんのかみつねつじ)の居城である垣添城があった場所に石垣を用いて大きく改築して出来た巨大な城だ。
築城に関しては黒田如水(くろだじょすい)、長政親子や加藤清正と言った築城名人達が縄張りをし築城期間は何と一年未満と言われかなり突貫工事な城だった。
この城の目的は全国各地の大名を集結させ朝鮮半島:明国への出兵だったが、縄張りは本丸・二の丸・三の丸に山里曲輪などがあり、天守閣は五重七階建でとても朝鮮出兵の為への中継地点の城とは思えない程の豪華爛漫な城だ。
だが二度に渡る朝鮮出兵の戦いで勝利をあげる事は出来ず、秀吉の死で終焉を迎え名護屋城はその役目を終える事となる。
その後は唐津城を築城する際の資材として名護屋城から使用しており更に寛永十四年に起きた「島原の乱」で一揆軍の拠点として使用される恐れがあった為に江戸幕府の命により名護屋城を破却する事となった。
現在
日本100名城スタンプ設置場所
佐賀県立名護屋城博物館内