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讃岐:丸亀城(まるがめじょう)

住 所 :香川県丸亀市一番丁
築城者 :生駒親正
築城年代:慶長二年
形 式 :平山城
遺 構 :現存天守・御殿表門・櫓門
入場料 :大人 200円 / 小人 100円
指定史跡:国指定史跡
訪問日 :令和02年07月18日
  • 国指定史跡
  • 日本100名城

歴史

丸亀城は慶長二年に生駒親正(いこまちかまさ)が築城した。
丸亀城は亀山と呼ばれる標高66mの山に親正が築城したが、当初は室町時代に官僚であった細川氏がこの地に砦を築いたのが始まりと云われている。
親正は織田氏、豊臣氏に仕え多くの手柄を立てると讃岐を秀吉より拝領し高松城を本城とし丸亀城は高松城への支城として築城された。
親正は慶長五年の「関ヶ原の戦い」には参戦せず在国していたが在国中に西軍に与する行動を行った。
だが関ヶ原に参戦した息子の一正(かずまさ)が東軍に味方し奮戦したため、生駒氏は戦後本領安堵と共に一正が家督を継いだ。
丸亀城は慶長七年に完成すると家督を継いだ一正は高松城に移動し丸亀城には城代を置いた。
しかし元和元年の一国一城令により丸亀城は廃城になるが当時の城主:正俊(まさとし)は丸亀城を樹木で隠し廃城を免れたとも伝えられている。
元和七年に正俊が死去すると小法師(後の高俊)が跡目を継ぐが幼少のため外祖父である藤堂高虎(とうどうたかとら)が後見人となり藤堂氏の家臣を派遣し藩政にあたらせた。
しかし寛永七年に高虎が死去し高次が跡を継ぐが、それ以降も生駒氏への後見が続くと徐々に生駒氏家臣と藤堂氏より派遣された家臣との間に亀裂が見え始めた。
これに対し高俊は藩政を家臣に任せていた為に特に対処は施さなかった。
両氏の亀裂は日毎に深くなり、寛永十四年には脇坂(わきさか)氏が仲裁に入り高次も事の重大性を考慮し派遣した家臣を国許に戻す対処を行った。
だがこれで事は収まらず遂に高次、高俊間で話し合いが行われるも決裂した為に裁定は幕府に委ねられる事となった。これが世に言う「生駒騒動」である。
幕府は生駒氏に派遣されていた藤堂氏家臣に切腹を命じ高俊の無責任な対応の処遇として領地を没収する判決を言い渡した。これにより生駒氏は改易となる。
生駒氏改易後は山崎氏が讃岐に入封し丸亀城の大改修を行い現在に残る遺構として城を改築した。
明暦三年に山崎氏が断絶すると京極氏が入封し明治時代まで京極氏の所領として栄える事となる。

現在

現在の丸亀城は現存天守や御殿表門、櫓門が残っている。
全国に十二ヵ所しかない現存天守も見所なのだが、この城の一番の見所は何と言っても高石垣だろう。
丸亀城をより美しく現している石垣は最も高い所では20m以上の高さを誇っている。
特に麓から観るとその雄大さは一目瞭然で、遠望から観るだけでこの地に来た事に満足してしまう程だ。
標高が66mとそこまで高くないが天守閣まで向かうには急勾配な坂を15分程度登る必要があり、その急勾配から「見返り坂」と呼ばれている。
本丸広場からは丸亀市を一望出来るがその景観も絶景で楽しむ事が出来る。
丸亀市のシンボルといえるこの城は見所沢山で一度訪れる事を是非お勧めする。

日本100名城スタンプ設置場所

丸亀城天守閣内

丸亀城関連サイト

丸亀城(日本100名城・現存十二天守)

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