讃岐:引田城址(ひけたじょうあと)
築城者 :不明
築城年代:不明
形 式 :山城
遺 構 :石垣・曲輪・空堀
指定史跡:国指定史跡
訪問日 :令和02年07月18日
歴史
引田城は築城者や築城年代は不明だが室町時代末期に四宮左近(しのみやさこん)が居城していたと云われている。
元亀元年に四宮氏は阿波国:三好氏に攻められると引田城は落城し三好氏の配下となった。
天正年間には長宗我部氏と十河氏がこの地の覇権を争い引田城は戦火に巻き込まれた。
更に天正十年に起きた「本能寺の変」後、羽柴秀吉と柴田勝家の間で織田氏後継問題の争いが起き、秀吉に味方する十河氏と勝家に味方した長宗我部(ちょうそがべ)氏で分かれ戦いが起き始めると秀吉方の仙石秀久は淡路国を平定し十河氏救援のため、引田城へ入城し長宗我部氏と一戦交える。
だが長宗我部氏の総攻撃の前に引田城は落城し秀久は敗走した。
天正十三年、秀吉による長宗我部氏討伐軍(四国攻め)によって長宗我部氏は降伏すると再び秀久が引田城に入城した。
同十八年に秀吉より讃岐一国を与えられた生駒氏が入城するが、引田城は讃岐の東端に位置している事や城が手狭なため新たに高松城を築城し生駒氏は高松城を拠点とすると引田城は持城として元和元年の一国一城令まで使用された。
現在
現在の引田城址は城山と呼ばれる標高82mの小高い山の山頂付近に石垣や曲輪といった遺構を残している。
登山道は3ヵ所あるが引田港側か、田の浦キャンプ場側の2ヵ所が主な登山道となっている。
今回は引田港側からの登山を行ったが登山道は良く整備されており、所々に地元住民の方が作った目印も点在するため迷う事無く山頂を目指す事が出来た。
15分程度で本丸に到着し本丸跡地の算木積石垣等が確認できる。
二の丸にはこの城址の最大の見所である高さ5~6mの高石垣を見る事ができた。
この石垣は野面積で出来ておりこの地は御殿があった場所だと云われている。
また城の東南には化粧池と呼ばれる人工の池が残されている。その名の通り女性が化粧を行っていたと云われる場所で籠城の際には重要な水源とされていた様だがこの池周辺にも見事な石垣が残されていた。
天守跡からみる景色も絶景で是非とも一度は立ち寄りたい場所である。
続日本100名城スタンプ設置場所
讃岐井筒屋敷
引田公民館