日向:宮崎城址(みやざきじょうあと)
築城者 :図師六郎入道
築城年代:延元元年
遺 構 :空堀・曲輪
指定史跡:未指定
訪問日 :平成20年03月26日
歴史
宮崎城は日向の雄:伊東氏の家臣である図師六郎入道(ずしろくろうにゅうどう)が延元元年に築城した自然の地形を利用した城だ。
この城は本丸・野首城(のくびじょう)・服部城・(はっとりじょう)彦右衛門城(ひこうえもんじょう)・百官城(ひゃっかんじょう)など五つの独立した曲輪から出来ており、城の南方には大淀川が通っている。
入道は宮崎城を築城した際に南朝方につき挙兵するが北朝側の土持宣栄(つちもちのぶひで)によって城は落城する。
その後、室町時代に入り宮崎城は再度伊藤氏の持城となると天文五年に当主:伊東義祐(いとうよしすけ)が火災により焼失した佐土原城から居城を移し日向の拠点とした。
当時は日向と薩摩の国境沿いであった飫肥城攻略の重要地点としても使用された。
だが次第に薩摩:島津氏との争いが激化すると 元亀三年に「木崎原の戦い」で伊東氏が敗退し島津氏が攻勢を仕掛けると、天正五年に日向は島津氏に占領されてしまうと宮崎城は島津氏家臣の上井覚兼が持城となった。
続いて天正十五年に豊臣秀吉の九州征伐で島津氏が秀吉に降伏すると高橋元種の所領となるが慶長五年の「関ヶ原の戦い」で西軍方に付いた元種は東軍方の伊藤氏に攻められ宮崎城は落城する。
だが後に元種は東軍方に寝返った為に宮崎城は返還された。
その後は有馬家氏が移封し有馬氏の居城となるが元和元年の一国一城令により廃城となってしまった。
現在
現在の宮崎城址は曲輪や空堀を遺構として残しているが大半の遺構跡は雑林や藪に覆われている。
だが服部城址には石碑やベンチなどが置いており散歩道としても使われている。
一応城の見取り図が現地に置いてはいるがその全てを見渡す事はできないと思って貰いたい。
更に現地では有名な心霊スポットとの噂もあり少し近寄りがたい場所となっているようだ。