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肥前:岸岳城址(きしだけじょうあと)

住 所 :佐賀県唐津市北波多稗田
築城者 :波多氏
築城年代:平安末期
形 式 :山城
遺 構 :石垣・堀切・堅掘・曲輪・櫓跡
指定史跡:県指定史跡
訪問日 :平成22年06月08日
  • 県指定史跡

歴史

岸岳城は築城年代など不明だがこの地で勢力を誇っていた松浦党の祖:源久の次男:持が波多郷を分与された際に名前を波多氏に変えてこの城を築城したのが始まりだ。
戦国時代には最盛期を迎えていた波多氏に跡目争いが勃発し波多氏家臣の日高氏に岸岳城は乗っ取られてしまう。
だがこの頃急激に勢力を伸ばしてきた龍造寺氏の力を借りて岸岳城を奪還するが、この騒動で波多氏の力は急激に衰え龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の傘下として組み込まれる事となった。
天正十二年に島原で有馬・島津連合軍が龍造寺氏と対戦しこれを撃破すると今度は龍造時氏の力が衰え始め、波多氏は再び独立領主を目指すも天正十五年に薩摩:島津氏が九州で猛威を振っている事で豊後の大友宗麟(おおともそうりん)が豊臣秀吉に救援を頼み秀吉の援軍が九州に駆けつけると、波多氏は秀吉に参陣せずに怒りを買うが鍋島直茂(なべしまなおしげ)の力添えのおかげで領土を安堵される。
だが約十年後に勃発した「文禄の役」で十七代城主:波多親(はたちかし)が戦いに積極性を欠けた事で秀吉は激怒し文禄二年に波多氏は改易される。
これによって波多氏約四百年間続いた歴史は途絶えてしまう。
その後は寺沢広高(てらざわひろたか)が入城するも唐津城を築城しそちらに移ると元和元年の一国一城令により岸岳城は廃城となってしまった。

現在

現在の岸岳城址は岸岳山頂付近に多くの遺構を残している。
この城址の見所は多くの石垣や広範囲に広がっている曲輪、見事な堀切など現存遺構が多く残っており、姫落とし岩や旗竿岩から見る下界も絶景である。
だがこの城址は地元住民からは有名な心霊スポットとされており、地元の人は寄り付かない場所でもあるので特にこの城址を見学される際には不謹慎な行動は控える事をお勧めする。

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