筑前:蔦ヶ嶽城址(からすがだけじょうあと)
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住 所 :福岡県宗像市陵厳寺
築城者 :不明
築城年代:不明
形 式 :山城
遺 構 :石垣・曲輪・堀切
指定史跡:未指定
訪問日 :令和元年10月12日
築城者 :不明
築城年代:不明
形 式 :山城
遺 構 :石垣・曲輪・堀切
指定史跡:未指定
訪問日 :令和元年10月12日
歴史
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蔦ヶ嶽城は築城者や、築城年数は不明のままだ。
元来この地方は宗像氏(むなかたし)の領土であり白山城を拠点としていたが、延元元年に後の室町幕府の開祖:足利尊氏が九州に落ち伸びた際に宗像大宮司氏俊(うじとし)が尊氏を招き入れ尊氏の支援を行うとその後蔦ヶ嶽城を修復して本城にしたと記されている。
その後も宗像氏の居城としてこの地一帯を治めていたが宗像氏貞(うじさだ)の代に少弐氏(しょうにし)が滅びると毛利元就(もうりもとなり)と大友宗麟(おおともそうりん)が北九州の覇権を巡り激戦を繰り返した。
氏貞は毛利氏に味方して大友宗麟と攻防戦を繰り広げるが毛利氏が中国地方に引き上げると宗麟は宗像地方に侵攻する。
蔦ヶ嶽城は包囲されるが難攻不落の堅城は落城することなく持ち応え和睦に成功する。
だが天正十四年に宗像氏貞が病死すると宗像氏は断絶する。
当城も豊臣秀吉の九州征伐の後に小早川隆景(こばやかわたかかげ)が筑前に入城すると破却され廃城となった。
現在
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現在の蔦ヶ嶽城址は城山となり宗像の地元では有名な山として多くの方に親しまれている。
城址は残念ながら曲輪と昭和時代に復元されたと言われる石垣が残っているのみで余り遺構が残ってなく散策を堪能出来なくなっている。
だが登山途中で二の丸跡や当時を和ませる堀切りなどが確認出来た。
現在では地元の方から愛される山として多くの方が登山を楽しみ山頂からの景色を楽しんでいる。