備前:金川城址(かながわじょうあと)
築城者 :松田盛朝
築城年代:承久年間
形 式 :山城
遺 構 :曲輪・石垣・井戸・堀切・土塁
指定史跡:市指定史跡
訪問日 :令和04年05月04日
歴史
金川城は松田盛朝が承久年間に最初の築城を行った。
盛朝は承久の乱で幕府側に味方し武功を上げると、この地を拝領し、承久三年頃に築城したと伝わっている。
その後、松田氏は領土を拡げ、一時は富山城を本拠地としたが、応仁の乱時に城主:松田元成は金川城に本拠を替えると、城の改修を行い居城とした。
松田氏は備前西半国を領し、赤松氏や浦上氏と対峙するまでに力を付けていたが、永禄十一年に浦上氏家臣の宇喜多直家により、金川城が攻撃を受けると城は落城し松田氏は滅亡してしまう。
直家は金川城を勢力下に置くと、翌年、主家である浦上氏に対し下剋上を起こし、浦上勢力を駆逐し備前の掌握に成功する。
だが、慶長五年に起きた「関ヶ原の戦い」で宇喜多氏が改易となると、小早川氏が備前へ入国した際に、金川城は廃城となった。
現在
現在の金川城址は臥竜山に多くの遺構を残している。
臥竜山の登山道は妙覚寺から登る道と、御津支所手前から登る大手道の二か所があり、今回は大手道から登り、下山は妙覚寺方面のルートで散策を行った。
大手道は千鳥坂と呼ばれる階段道を登ると出丸に到着する。その出丸から更に進むと、「杉の木の井戸」と呼ばれる井戸を確認する事が出来る。
更に進むと二の丸に到着し、そこから本丸に向かう途中に良い形の桝形虎口が残されていた。
本丸には供養塔と案内板が残されており、本丸の曲輪を観る事が出来る。
更に本丸から北へ進むと、この城の一番の見所である径8m、深さは10.8mある「天守の井戸」が残されており、山城でこの様な強大な井戸跡は初めて見たので驚きよりも肝を抜かされた。
更に北へ進むと北の丸に着くのだがここにも「白水の井戸」と呼ばれる深い井戸を観る事が出来た。また、北の丸には見事な堀切が残されていた。
下山時のルートである妙覚寺方面に進むと所々に石垣が残されており、この城の防御力の高さが伺えた。