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筑後:古処山城址(こしょざんじょうあと)

住 所 :福岡県朝倉市野鳥
築城者 :原田種雄
築城年代:建仁三年
形 式 :山城
遺 構 :曲輪・石塁・濠・井戸跡
指定史跡:未指定
訪問日 :平成25年10月06日

歴史

古処山城は建仁三年に原田種雄(はらだたねお)によって築城された。
種雄は高祖山城主:原田氏の同族で、種雄が城を築城した際に「秋月」姓を名乗るようになったのが秋月氏の始まりといわれている。
秋月十六代当主:種実時代が秋月氏の全盛期だが種実が少年時代の弘治三年に豊後:大友宗麟(おおともそうりん)の猛攻を受け、古処山城は落城し種実の父や長男は自害されてしまうが種実は毛利氏を頼って落ち延びた。
永禄二年に毛利氏の支援を受け大友氏の占領下にあった古処山城を攻撃しこれを撃破し古処山城奪回に成功する。
その後も九州の雄:大友宗麟を相手に攻勢を仕掛けるが徐々に大友氏の反撃を受け永禄十二年に降伏する。
だが天正六年に大友氏が薩摩:島津氏に「耳川の戦い」で大敗し島津氏が勢力を拡大すると大友氏は急激に衰退し種実は島津氏に従属するようになる。
この時期に秋月種実(あきづきたねざね)は三十六万石の大名となる。
しかし天正十五年に豊臣秀吉の九州征伐で島津氏が秀吉に降伏すると種実は日向に入封となる。
その後は関ヶ原の戦いで黒田氏の領土となるが古処山麓に秋月城を築城すると古処山城は廃城となった。

現在

現在の古処山城址は古処山山頂や山腹に遺構を残している。
本丸跡には曲輪や石塁が残っている他、畝状阻塞(うねじょうたてぼり)や井戸跡も残っている。
井戸跡は水舟と言われ現在も湧水の泉として登山者に愛用されている。
多くの登山者に愛され標高859mを誇る雄峰は秋月のシンボル的な存在で麓にある秋月城の搦手門(からめてもん)は古処山城の遺構として移築され現在に至っている。

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