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備中:高松城址(たかまつじょうあと)

住 所 :岡山県岡山市北区高松558-2
築城年代:不明
形 式 :平城
遺 構 :曲輪・堀
指定史跡:国指定史跡
訪問日 :令和2年06月20日
  • 国指定史跡
  • 続日本100名城

歴史

高松城の築城年代は定かではないが松山城主:三村氏の家臣である石川氏が築城したと云われている。
 天正三年に起きた「備中兵乱」で毛利氏の猛攻を受けた三村氏は滅亡し高松城は名将:清水宗治(しみずむねはる)の居城となる。
天正十年に織田信長による中国攻めで羽柴秀吉による高松城攻めが始まると周囲を沼地に囲まれた当城は難攻不落で持久戦となるが、黒田孝高(くろだよしたか)の策により高松城周辺を堤防で囲み沼地に川の水を流し込む水攻めが行われた。これが世に言う「高松城の水攻め」である。
だがその水攻めの最中に「本能寺の変」が起き信長が死去すると、秀吉は明智光秀との決戦を決意するがそれには毛利氏と和睦を結び必要があった。
そこで秀吉は毛利氏の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を仲介として宗治の自害を和睦の条件とした。
宗治はその提案を受け入れ城兵の命と引き換えに切腹する。
宗治の生き様は多くの方が感動し今でも語り継がれている。
その後の高松城は宇喜多氏、花房氏が入城し一国一城令が出るまで花房氏の居城となった。

現在

現在の高松城址は高松城址公園として整備されている。
日本史に残る戦場となった城址だが遺構として曲輪や築堤跡が残されていた。
そこまで大きな見所がなく同公園内にある資料館に「高松城水攻め」の詳細が説明している。
本丸跡地には清水宗治の首塚と辞世の句があり今でも地元住民の方がお供え物を行っていた。

続日本100名城スタンプ設置場所

高松城址公園資料館

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