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伯耆:米子城址(よなごじょうあと)

住 所 :鳥取県米子市久米町
築城者 :山名氏
築城年代:文明二年
形 式 :平山城
遺 構 :天守台・石垣・曲輪
指定史跡:国指定史跡
訪問日 :令和元年08月28日
  • 国指定特別史跡
  • 続日本100名城

歴史

米子城は文明二年に山名氏が築城したと云われている。
「出雲私伝」によると「応仁の乱」時の文明二年に伯耆:山名氏と出雲:京極氏の間で争いが勃発し山名氏が敗走すると米子城に逃げ込んだとありその頃の築城だと推測される。
その後に尼子氏(あまごし)の所領となるが、毛利氏が勢力を延ばすとその力に屈し米子城は毛利氏の勢力となり山名氏が城主に返り咲く。
永禄十二年に山名氏は尼子氏と結び毛利氏に反旗を翻すも毛利氏家臣:吉川元春により米子城は落城する。
米子城は吉川元春(きっかわもとはる)の管轄となり天正十九年に元春の子:広家は湊山、丸山に飯山の地形を利用し新城の築城を行う。これが現在の米子城となる。
だが広家は慶長五年の「関ヶ原の戦い」で敗退すると米子城の築城途中で転封となり、中村一忠(なかむらかずただ)が伯耆に移り米子城を完成させ初代米子藩主となる。
完成した米子城は四層の天守を持つ近大城郭であった。
しかし慶長十四年に一忠は嫡子を残す事無く二十歳の若さで死去する。
その後の米子城は加藤氏、池田氏と城主をかえ寛永九年に池田光仲(いけだみつなか)が入邦すると米子城は家臣:荒尾成利(あらおなりとし)を城主とし以後、荒尾氏の居城として明治時代を迎えた。

現在

現在の米子城址は湊山公園として整備されている。
城跡は公園入口から見事な石垣が見え山頂には天守台や副天守台といった遺構が残されている。
この場所はハイキングコースにもなっており城見学者以外にも多くの方が来ている。
また隣接している丸山には内善丸と呼ばれる倉庫跡も残されていてとても見応えがある。
散策日は残念ながら雨模様で山頂から観る米子市内は曇っていたが晴天時は絶景なのだろう。
是非、晴天時にまた立ち寄りたい場所だ。

続日本100名城スタンプ設置場所

米子市立山陰歴史館
米子城跡天守東屋

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