淡路:洲本城址(すもとじょうあと)
築城者 :安宅治興
築城年代:大永六年
形 式 :山城
遺 構 :模擬天守・石垣・堀
指定史跡:国指定史跡
訪問日 :令和元年09月22日
歴史
洲本城は大永六年に三好氏の重臣:安宅(あたぎ)治興が築城した。
その後は治興の養子:冬康(ふゆやす)(三好長慶の弟)が跡を継ぎ安宅氏の居城として栄えたが、天正九年に起きた淡路征伐の際に安宅氏は羽柴秀吉(はしばひでよし)に降伏した。
安宅氏降伏後に信長が「本能寺の変」で横死すると秀吉が台頭し洲本城は淡路平定に貢献した仙石秀久(せんごくひでひさ)に与えられた。
だが秀吉による九州征伐に参陣した秀久は、軍律違反を犯し領土を没収され高野山に追放となる。
秀久にかわり脇坂氏(わきさかし)が城主として洲本城に入城すると城の大改修を行った。
改修された洲本城は三熊山山頂に天守を持ち麓に御殿を築城、その周りを「登り石垣」で繋いで防御力を高めた。
慶長十四年に脇坂氏が移封すると池田忠雄が入城した。忠雄は洲本城から由良城に拠点を移すと洲本城は廃城となる。
大坂の陣後に池田氏が備前に移封すると、蜂須賀氏(はちすかし)が大坂の陣の戦功により由良城へ入城した。
蜂須賀氏は城の痛み具合が酷い由良城から洲本城に拠点を移す事を実行する。(このことを由良引きとよばれている)またこの移動は城下町も含まれた。
移動の際に三熊山の麓に新城を築城、城は洲本城(下の城)と呼ばれた。
三熊山山頂の城は使われる事はなかったが下の城を拠点として明治時代を迎えた。
現在
現在の洲本城は三熊山山頂に模擬天守が建てられている。
模擬天守は実際にあった天守の復元ではないが昭和三年に建造されており日本一古い模擬天守となっている。
この城の見所は山頂に現存している総石垣だろう。
遺構の形も良好で時間が有るなら麓から登山道から登る事をお勧めする。
また山頂から望む展望は洲本八景にも選ばれている。
是非洲本城からの景色を堪能して貰いたい。
続日本100名城スタンプ設置場所
洲本市立淡路文化資料館