但馬:竹田城址(たけだじょうあと)
築城者 :山名持豊
築城年代:永享三年
形 式 :山城
遺 構 :天守台・石垣・空堀
入場料 :大人 500円 (中学生以下無料)
指定史跡:国指定史跡
訪問日 :令和元年05月19日
歴史
竹田城は別名「天空の城」として有名な城址だ。
だが築城年代については不明な点が多く、永享三年に但馬守護:山名持豊(やまなもちとよ)が築城を命じ城代として太田垣光景(おおたがきみつかげ)を据えたと云われている。
この時期に山名氏は赤松氏と軍事衝突を起こす事となり嘉吉元年に勃発する「嘉吉の乱」では、幕府討伐軍に加わり赤松氏討伐に貢献する。
持豊はその恩賞として播磨守護となり勢力を拡大するが、その後も赤松氏残党と衝突は繰り返す事となると竹田城は播磨平定の重要拠点として使用された。
だが応仁元年に山名氏は細川氏と争う事となる。
この争いは日本に大きな火種となり「応仁の乱」を招くきっかけとなる。その際に竹田城主:太田垣氏も合戦に参戦する。
応仁の乱後も山名氏は細川氏や赤松氏と衝突を繰り返し、一時は播磨を平定するのだが徐々に赤松氏が勢力を盛り返すと山名氏は劣勢を強いられ内紛も発生し急速に勢力が弱まり最後は赤松氏によって追放される。
天正元年に赤松広秀(あかまつひろひで)は竹田城を攻略し竹田城城主:太田垣朝延は因幡に敗走すると広秀が城主となった。
天正五年に今度は織田信長の播磨侵攻によって但馬にも兵を進めると、竹田城は羽柴秀吉により落城し羽柴秀長(はしばひでなが)が城主となった。
同十三年には秀吉に降伏していた赤松広秀が再度城主となると城を改築し現在の縄張りとなる。
だが広秀は慶長五年に起きた「関ヶ原の戦い」で西軍に加担すると西軍敗退後に自刃し竹田城も廃城となった。
現在
竹田城址は現在虎臥山(とらふすやま)山頂に石垣等多くの遺構を残している。
冬季の雲海が多く張る季節にはその雲海上に浮かぶ城として有名で、多くの方が観光スポットとして訪れている。
山頂には多くの現存石垣や曲輪、絶景の眺めを堪能出来る天守台が残されている。
とても有名な城のために麓からの山道も良く整備され城址も見学コース通りに進む事が出来るので安心して城巡りを堪能出来る。
また麓から観る石垣群には感動すら覚え城マニアは必ず訪れるといわれる城址である。
時期によって登城出来るタイミングが異なるので必ず確認して向かうよう注意していただきたい。
日本100名城スタンプ設置場所
山城の郷
JR竹田駅
観覧料収受棟
情報館天空の城