河内:飯盛山城址(いいもりやまじょうあと)
築城者 :木沢長政
築城年代:建武年間
形 式 :山城
遺 構 :石垣・堀切・堅掘・曲輪
指定史跡:未指定
訪問日 :平成31年04月27日
歴史
飯盛山城は建武年間に木沢長政(きざわながまさ)が築城した城と云われている(別説として佐々目憲法築城説も有る)
南北朝時代の正平三年に起きた「四条畷の戦い」では、南朝方の恩地氏が立て籠もったとされているが当時は臨戦的陣城で恒久的な城ではなかったと推測されている。
天文年間に河内国守護:畠山義堯の家臣:木沢長政が飯盛山城を本格的に築城し居城とすると、長政は畠山氏にかわって河内国守護となるほど勢力を誇るようになる。
だが細川高国を討伐した三好元長(みよしもとなが)と長政の間で争いが勃発すると、義堯や細川晴元、山科本願寺を巻き込む「飯盛城の戦い」へと発展していくである。
戦いは数万もの援軍を擁する山科本願寺を味方につけた長政の勝利となり義堯は自害し元長は山科本願寺兵に打ち取られてしまう。
その後、父の敵に燃える三好長慶(みよしながよし)は長政を討ち取り主君:畠山氏を追放すると飯盛山城を居城とし大規模な改修を行う。
長慶は飯盛山城を拠点として河内を支配するが永禄六年に嫡男:義興が急死すると、翌七年には長慶も飯盛山城で病のため没した。
その後、織田信長による河内平定で三好氏は信長の軍門に降り飯盛山城は河内国守護:畠山昭高の持城となるが、元亀四年に昭高家臣:遊佐信教が反乱を起こし昭高は自害に追い込まれると激怒した信長が信教を攻撃し天正四年に飯盛山城は落城となり城も廃城となった。
現在
現在の飯盛山城址は飯盛山山頂に多くの石垣を残している。
山城としては珍しく山頂部に多くの石垣が残されており曲輪や堅掘、千畳敷などの遺構も良好な形で確認する事が出来る。
また本丸跡地には楠木正行(くすのきまさゆき)の銅像が建てられており山頂部憩いの場として使用されていた。
石垣は長慶が改修された際に造られたと推測されており、その築城技術の高さを知る事が出来る程の遺構だ。
山頂からは大阪や京都方面が一望出来る程のパノラマ景観が広がっており、是非一度行く事をお勧めする場所だ。
続日本100名城スタンプ設置場所
大東市立歴史民俗資料館
四条畷市立歴史民俗資料館
大東市立野外活動センター