九州の観光情報サイト:Kyusyu.sky.net

摂津:芥川山城址(あくたがわざんじょうあと)

住 所 :大阪府高槻市大字原
築城者 :細川高国
築城年代:永正十二年頃
形 式 :山城
遺 構 :石垣・井戸・土塁・曲輪
指定史跡:未指定
訪問日 :平成31年04月20日
  • 続日本100名城

歴史

芥川山城は永正十二年頃に細川高国が築城した城だ。
その後細川政元が淡路より勢力を広げ芥川山城に入城すると城を増設し防衛機能を拡げた。
政元は後に京で官僚に就き京と芥川山城を行き来する事となるが、天文八年に三好長慶(みよしながよし)が政元を京都より追い出し芥川山城も長慶の領土となる。
両者間で一度は和議を結び芥川山城から長慶は撤退するも、細川氏同族間で争いが起こるとその隙を突き天文十六年に長慶が芥川山城を落城する事となる。
その後三好氏の拠点として長らく使用され、永禄三年に長慶は飯盛山城に移ると息子の長興が城主となった。
だが三年後の永禄六年に長興が、翌年には長慶が相次いで死去すると三好氏は徐々に衰退していく。
そして永禄十一年に織田信長が摂津へ侵攻すると芥川山城は信長の手により落城する。
信長の支配下となった芥川山城は摂津三守護:和田惟政(わだこれまさ)が入城し城主となる。
惟政は翌年に起きた「本圀寺の変」で功を挙げると高槻城も与えられた。
しかし惟雅が近隣諸国と確執が生じるようになると、元亀四年に家臣であった高山友照(たかやまともてる)・右近(うこん)親子によって和田氏は滅ぼされ 芥川山城も廃城となった。

現在

現在の芥川山城址は三好山山頂部や東の尾根部分に多くの遺構を残している。
三好山へは幾つかのルートがあり、どのルートでも城址の遺構を楽しむ事が出来るが大手筋から登頂すると山頂までの距離は短く石垣等を確認出来る。
山頂部には曲輪や長慶を祀った社が建てられておりこの場所から観る高槻市は絶景だ。
麓の農道にも古い石垣が残されているが、これは後世に築かれたもので山城の石垣とは直接関係は無い。
尚、令和三年に山頂付近で櫓跡が発見されており更なる発掘調査で城跡の全貌解明に期待したい。

続日本100名城スタンプ設置場所

高槻市立しろあと歴史館
高槻市観光協会事務所(阪急高槻市駅構内)
高槻市観光案内所(JR高槻駅構内)

MAP