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近江:小谷城址(おだにじょうあと)

住 所 :滋賀県長浜市湖北伊部
築城者 :浅井亮政
築城年代:大永三年頃
形 式 :山城
遺 構 :石垣・空堀・堀切
指定史跡:国指定史跡
訪問日 :令和元年06月23日
  • 国指定史跡
  • 日本100名城

歴史

小谷城は大永三年頃にこの地の領主であった浅井亮政(あざいすけまさ)が築城したと云われている。
正式な築城年代は不明だが大永五年に六角氏(ろっかくし)が江北に侵攻した際に小谷城で籠城している事からその直前に築城されたと推測されている。
浅井氏はこの城を拠点として勢力を増す事となり城も拡張されていった。
浅井長政時代の永禄十年に長政は織田信長の妹:お市と結婚する事で織田氏と婚姻同盟を結ぶと翌年に信長は京への上洛途中で六角氏を撃破し六角氏の近江への勢力は衰退する。
だが元亀元年に信長は越前国:朝倉氏を徳川家康との連合軍で攻撃すると朝倉氏とも同盟関係だった浅井氏は熟考の末に信長を見限り朝倉氏に加担した。
長政は織田・徳川連合軍の背後を襲撃すると連合軍は崩れ信長も危うくなるが木下藤吉が殿で奮闘し信長は近江から脱出した。
怒り心頭の信長は同年六月に再度徳川家康と連合を組み姉川で浅井・朝倉軍を破るが本願寺への対応等が重なり侵攻する事が出来なかった。
その後も信長は近江に襲来する事はあったが戦況は膠着状況となる。
しかし信長は敵対する隣国を蹂躙(じゅうりん)すると天正元年に三万の大軍で北近江に押し寄せ、援軍に駆け付けた朝倉氏をも撃破し勢いのまま越前国へ侵攻し朝倉氏を滅ぼした。
完全に孤立した長政が籠る小谷城に信長は総攻撃をかけ長政と父:久政は自害、浅井氏は滅亡し小谷城も落城した。
浅井氏滅亡後、江北は羽柴秀吉に与えられるも秀吉は長浜に新城築城を行い小谷城はその資材として使用され廃城となった。

現在

現在の小谷城址は小谷山に多くの遺構を残している。
日本五大山城の一つに数えられる名城は余りにも多くに遺構が点在している為ため案内板や観光MAPで事前に確認する事をお勧めする。
麓から大嶽山山頂まで登山道から遺構を楽しむ事もお勧めだが中腹まで車で行く事も可能になっているので時間に余裕が無い方にはこちらをお勧めしたい。
その中腹から本丸跡地までは徒歩10分程で到着でき本丸跡には野面積の石垣が確認できる。
他にも曲輪や井戸跡も観る事が出来る。
そこから詰めの城でもある大嶽まで中丸、京極丸、小丸、山王丸、月所丸など多くの遺構を楽しめること間違いないだろう。
その多くの遺構の中で山王丸の大石垣と本丸と中丸の間になる大堀切は是非見て頂きたい。
またとても印象深かったのが城跡入口に「クマ出没注意」の看板があったことだ。
もし遭遇していたらどう対応して良いか全く思いつかなかった。
訪れる際には心して行かれる事をお勧めする。

日本100名城スタンプ設置場所

小谷城戦国歴史資料館(毎週火曜休館日)
※長浜市役所湖北支所
※JR河毛駅コミュニティーハウス
※戦国ガイドステーション
※の場所は小谷城歴史資料館休館日に設置

MAP