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三河:吉田城址(よしだじょうあと)

住 所 :愛知県豊橋市今橋町3
築城者 :牧野古白
築城年代:永正二年
形 式 :平城
遺 構 :櫓・石垣・土塁・曲輪
指定史跡:未指定
訪問日 :平成31年04月30日
  • 続日本100名城

歴史

吉田城は永正二年に今川氏親の命により牧野古白(まきのこはく)が築城した城だ。
だが翌年に古白が戦死すると牧野氏と戸田氏の間で争奪戦を繰り返し城主が多々入れ替わる事となる。
更に享禄二年には西三河の松平清康が侵攻し吉田城を攻略すると、松平氏の管轄となるが清康死後に再度牧野氏と戸田氏の間で争奪戦となる。
天文十五年、今川義元は牧野保成の要請を受け吉田城を攻撃落城させ今川氏の管轄下に入ると吉田城は今川氏における東三河重要拠点となった。
その後に東三河:松平氏が弱体化すると松平氏を組み込んだ今川氏は東三河全域を管轄下に収めるが永禄三年に起きた「桶狭間(おけはざま)の戦い」で今川義元が織田信長に討たれると、 今川氏の支配力が急劇に低下し松平家康(後の徳川家康)はこの機に今川氏から離縁すると同八年に家康は吉田城を攻め立て攻略する。
吉田城を攻略した家康は城代に重臣:鳥居忠次(とりいただつぐ)を置き遠江攻略の拠点となった。
天正十八年に家康は秀吉の命により関東へ移封となると池田輝政が城主となり吉田城の拡張に入るが慶長六年に輝政は播州・姫路へ移封された。
この時拡張中の城は未完成のままだった。
その後、城主は国替えが頻繁に行われたために腰を据えて未完の吉田城再着手にあたる事が出来ず吉田城は未完成のまま明治時代を迎えた。

現在

現在の吉田城址は豊橋公園となっており模擬鉄櫓や石垣などの遺構が残っている。
鉄櫓は豊川対岸から眺めるとその雄姿を更に引き立てており豊橋のシンボルとなっている。
豊橋公園には石垣や土塁、曲輪など良好な形で残されており駐車場から鉄櫓までの道筋を豊川川岸から進むとその遺構を存分に堪能する事が出来る。
本丸跡地は広大な広場となっており吉田城が完成していたら現世にどのような形で残されていたか興味は尽きない。

続日本100名城スタンプ設置場所

吉田城址鉄櫓内

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