大隅:松山城址(まつやまじょうあと)
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住 所 :鹿児島県志布志市松山町新橋
築城者 :平重頼
築城年代:文治四年
形 式 :山城
遺 構 :空堀・曲輪
指定史跡:市指定史跡
訪問日 :平成31年01月20日
築城者 :平重頼
築城年代:文治四年
形 式 :山城
遺 構 :空堀・曲輪
指定史跡:市指定史跡
訪問日 :平成31年01月20日
歴史
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松山城は平重頼が文治四年に築城したと云われている。
その後、嘉吉(かきつ)の乱の際に将軍:足利義政を謀殺した赤松満祐(あかまつみつすけ)の子:教康が島津氏を頼り落ち延びるとこの地で栄えたと伝わっている。
元禄元年には島津氏の配下:平山忠智を城主とするも島津氏と対立していた肝付兼続(きもつきかねつぐ)によって忠智は討死し松山城も肝付氏の領土となる。
だがこの事に激怒した島津氏は天正五年に肝付氏へ猛攻を仕掛け松山城は志布志城と共に島津氏の配属となり市来氏が地頭となった。
現在
現在の松山城は「城山総合公園」として整備されている。
公園内の展望台と護国神社がある場所が城址遺構で曲輪や空堀が確認出来た。
遺構としては二の丸の一部を残す程度だが春には桜の名所となりライトアップもされ夜桜を堪能出来る。