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豊後:富来城址(とみくじょうあと)

住 所 :大分県国東市国東町富来浦
築城者 :富来忠文
築城年代:弘長元年
形 式 :平城
遺 構 :石垣・空堀・井戸跡
指定史跡:市指定史跡
訪問日 :平成29年8月22日

歴史

富来城は弘長元年に富来忠文(とみくただふみ)が築城した城と云われている。
(一説では正安元年に富来忠政(とみくただまさ)の築城とされている)
富来氏は長年豊後(ぶんご)の覇者・大友宗麟(おおともそうりん)に従っていたが、文禄の役による失態で大友氏が除封されると富来城は垣見家純(かきみかずなお)の居城となった。
慶長五年の「関ヶ原の戦い」では家純は西軍に与して大垣城に入城すると、城代として垣見理右衛門が城主をつとめるが突如中津城より黒田如水(くろだじょすい)が攻め立ててくる。
如水は大友氏復興に燃える大友義統(おおともよしむね)を大垣原合戦で撃破すると理右衛門が立て籠もる富来城の攻撃を開始し約十日にも及ぶ攻城戦を行った。
だが大垣城で家純戦死の報が届くと戦意を失った垣見氏は降伏し開城となる。
関ヶ原の戦い後、日出に木下氏が入部すると富来城の戦いに大きく胸を打たれた木下氏は日出城の裏門に富来城の大手門を使用したと云われている。
余談になるのだが富来城の戦いには剣豪・宮本武蔵(みやもとむさし)も参戦したと云われその際に足を負傷したとの言い伝えが残っている。

現在

現在の富来城址は本丸跡地が「城山子供公園」として整備されている。
公園はそこまで大きくなく城跡の名残が強いが遺構らしい物は多少の石垣と空堀、駐車場の隅に井戸跡が残っている程度である。
だが公園周辺にも遺構が残っているみたいだ。

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