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肥後:水俣城址(みなまたじょうあと)

住 所 :熊本県水俣市古城1丁目6-89
築城者 :相良氏
築城年代:南北朝時代
形 式 :山城
遺 構 :石垣
指定史跡:未指定
訪問日 :平成22年07月26日

歴史

水俣城は文献では至徳二年に水俣氏の居城だとあるが詳細は定かではない。
南北朝時代には人吉を拠点としていた相良氏が葦北郡(あしきたぐん)まで勢力を延ばしており、水俣城も相良氏の支配下にあったが天正年間に隣国薩摩の島津氏が勢力を延ばす為に葦北郡へ度々侵攻し同九年に葦北郡を割譲する形で相良氏は島津氏に降伏した。
だが天正十五年の九州征伐後に葦北郡は豊臣秀吉の管轄下になり、深水長智(ふかみながとも)がこの地方を治める事となった。
その後は寺沢氏や小西氏の所領となるも慶長五年の「関ヶ原の戦い」後に北肥後国主の加藤清正(かとうきよまさ)が肥後国一帯の大名となり水俣城は中村正師が城代となる。
その後、慶長十七年に江戸幕府の命で廃城となった。

現在

現在の水俣城址は「城山公園」となっており城の遺構らしき物は石垣と石碑が残っていた。
公園内にある小山の山頂に西南戦争で戦死した将校達の墓石が建てられていた。
所々に石垣や曲輪は確認ができるが当時からの遺構か公園立地時にできた物かの区別はつかない。

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