筑後:知徳城址(ちとくじょうあと)
住 所 :福岡県八女郡広川町広川
築城者 :不明
築城年代:不明
形 式 :山城
遺 構 :曲輪・空堀
指定史跡:未指定
訪問日 :令和03年03月09日
築城者 :不明
築城年代:不明
形 式 :山城
遺 構 :曲輪・空堀
指定史跡:未指定
訪問日 :令和03年03月09日
歴史
知徳城は築城者や築城年代は不明だ。
天正年間に蒲池鑑広家臣:一条和泉守の居城であった。
蒲池氏は大友氏の配下であったが大友氏が「耳川の戦い」で島津氏に大敗し急激に勢力が衰えると、肥前の龍造寺氏が筑後へ勢力を伸ばすようになり蒲池氏は龍造寺氏の傘下となる。
だが天正七年に鑑広は龍造寺氏に反旗を翻すと龍造寺氏家臣:横岳頼次が知徳城へ攻め寄せた。
圧倒的不利な中、一条和泉守は奮闘するも知徳城は落城しそれ以降は廃城になったと云われている。
現在
現在の知徳城址は下広小学校背後の裏山に遺構を残している。
裏山中腹に熊野神社が祀られておりここを訪れるには下広小学校校庭を通る必要がある。
小学校周辺には「知徳城」の案内板もみられる。
訪れた際に下広小学校へ通行許可の連絡を取ると許可を頂けたので熊野神社の散策を行った。
また山頂には空堀が確認できる様だ。
記述通り、熊野神社へは必ず下広小学校の許可を得て向かってほしい。