筑前:益富城址(ますとみじょうあと)
住 所 :福岡県嘉麻市中益
築城者 :大内盛見
築城年代:永享年間
形 式 :山城
遺 構 :石垣・堀・曲輪・搦手門
指定史跡:県指定史跡
訪問日 :令和03年02月23日
築城者 :大内盛見
築城年代:永享年間
形 式 :山城
遺 構 :石垣・堀・曲輪・搦手門
指定史跡:県指定史跡
訪問日 :令和03年02月23日
歴史
益富城は永享年間に周防・長門の覇者で豊後守護でもある大内盛見(おおうちもりみ)が築城した。
盛見は九州では豊後だけでなく豊前・筑前・筑後にも勢力を誇っており実質北九州を制圧していたが、 次第に豊後:大友氏と争いが激化し永享三年に盛見は戦死してしまう。
永禄時代には益富城は毛利氏の勢力範囲となり大友氏の秋月種実に備える支城の一つとなった。
天正十五年に豊臣秀吉の九州征伐軍が九州に下向すると益富城は秋月種実(あきづきたねざね)の隠居城となっていたが、豊臣軍の圧倒的な軍勢を前に種実は益富城から撤退し本拠地の古処山城に引きこもってしまう。
益富城に入った秀吉は荒れ果てた城内を一夜にして修復してみせ驚いた秋月氏は秀吉の前に降伏してしまう。これが有名な秀吉の一夜城の由来である。
その後は慶長五年の「関ヶ原の戦い」で功をあげた黒田長政の勢力地となり、同六年に当城は黒田二十四騎の名将:後藤又兵衛(ごとうまたべえ)が居城するが、同十一月に又兵衛は黒田氏を逐電すると次に黒田節で有名な母里太兵衛友信が入城した。
その後は元和元年の一国一城令により廃城となった。
現在
現在の益富城址は「益富城自然公園」となっており地元自治体の方々によって城跡保存に向け整備されている。
一夜城や黒田節の主人公:母里太兵衛(もりたへえ){正式名は母里友信(もりとものぶ)}で有名な益富城址だが、 山頂付近には多くの遺構が残っており保存状態も極めて良い。
特に見所は畝状阻塞(うねじょうたてぼり)が良好な形で残っている場所で多くの場所で石垣も確認できた。
更に益富城の麓の麟翁寺(りんのうじ)には益富城の搦手門(からめてもん)や母里太兵衛の墓などもあるので是非そちらにも立ち寄ってもらいたい場所だ。