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豊前:松山城址(まつやまじょうあと)

住 所 :福岡県京都郡苅田町松山1152
築城者 :藤原広嗣
築城年代:天平十二年
形 式 :山城
遺 構 :石垣・石段・郭・土塁
指定史跡:未指定
訪問日 :平成25年05月20日

歴史

松山城は天平十二年に太宰権師:藤原広嗣(ふじわのらひろつぐ)が朝廷に反旗を翻した際に築城したのが始まりだと云われている。
この乱は「藤原広嗣の乱」と呼ばれ反乱は失敗に終わり広嗣は処刑される。
天慶三年には「藤原純友の乱」が起こり松山城は神田光員の居城となり松山城を修繕している。
だが保元二年に平家:平康盛が神田氏を滅ぼし平家の勢力地となるが、その平家も「壇ノ浦の戦い」で滅んでしまう。
その後もこの地の覇権を争う戦いに松山城は重要拠点として争いが続き後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏の臣:少弐頼尚(しょうによりひさ)に攻略され少弐氏の居城となる。
しかし周防国の大内氏が九州に勢力を拡大すると大内氏・長野氏・大友氏の戦いで度々戦火の場となる。
永禄時代になると毛利氏の居城となるが大友宗麟との間で戦いが勃発するとまたも松山城は戦場となってしまう。
慶長五年の「関ヶ原の戦い」後に細川氏の領土となり同十一年の一国一城令でついに松山城は廃城となった。

現在

現在の松山城址は石垣や石段といった遺構を残しているが損傷が酷く原因は採石だと云われている。
城址は標高128mの松山山頂付近に残されている。
松山自体は比較的登り易い山で山頂からは周防灘や苅田町の工業地帯が見え海風が吹く展望台は絶景の眺めになっている。
築城当時の松山城周りが海となっており孤立した屈強の城だったが現在は埋め立てが進み見る影もなくなっている。
その山頂の残されている石垣は損傷こそ激しいが見応え十分で本丸跡地に曲輪も確認する事が出来る。
戦国当時は激戦を繰り返した北九州最古の山城だが今は地元住民の方々のハイキングコースになり多くの方が来ている。

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