備前:明禅寺城址(みょうぜんじじょうあと)
築城者 :宇喜多直家
築城年代:永禄九年
形 式 :山城
遺 構 :曲輪・堀
指定史跡:未指定
訪問日 :令和03年07月31日
歴史
明禅寺城(みょうぜんじじょう)は永禄九年に宇喜多直家(うきたなおいえ)が築城したと云われている。
直家は浦上宗景(うらがみむねかげ)の家臣であったが、備前国で領土拡大を図り、明禅寺城を築城する。
だが同じく備前国で領土拡大を図る備中の三村元親(みむらもとちか)が同十年に備前へ侵攻すると、明禅寺城で戦火の中心となる大戦が繰り広げられる。これが「明禅寺合戦」である。
元親の父:家親は前年、美作国で宇喜多氏と争いの最中に暗殺されており、三村氏と宇喜多氏の関係は悪化の一途を辿っていた。
戦は夜襲を仕掛けた元親の軍が明禅寺城を占拠するが、直家は元親に降伏した備前の国衆を寝返らせ明禅寺城を孤立させる。
更に直家は明禅寺城に立て籠もる三村氏の守兵に降伏を呼びかけるも拒否されると後詰の元親率いる本体ごと粉砕する作戦を立案する。
元親は明禅寺城と連携し宇喜多氏を壊滅させるため一万の軍で備前へ侵攻すると直家は五千の兵で明禅寺城へ向かった。
直家は元親到着前に明禅寺城を落城させ三村氏の動揺を誘うと、その先方隊も撃破し戦を優位に進める。
その為、三村氏側の軍は個々の判断で動くようになり戦局はさらに悪化する。
そして元親やその旗本衆は家親の仇を討つ為、宇喜多氏に突撃をしたが、戦局を打開するには至らず敗退し、元親は備前西側の勢力を失った。
この戦いで宇喜多直家は備前で絶大な力を得る事となり、後年浦上氏を追放し備前を手中に収めた。
現在
現在明禅寺城址は操山山腹と山頂に曲輪や堀の遺構を残している。
明禅寺城址へは幾つかのルートがあるが、今回は恩徳寺の北側から散策を行った。
このルートの入り口は一見柿畑の敷地に思えるが「遍路」と書かれている山道を通ると「明禅寺城」の道標が見えてくる。
山腹には多少の石塁らしき遺構を確認する事ができる。
そして山頂近くには「明禅寺城跡」の立て札があり、
その周辺には曲輪らしき物が確認できる。
さらに山頂へ進むと、休憩所の横に巨石と虎口らしき物が確認できるが
これが遺構であるかは不明だ。
この休憩所に「明禅寺城」の案内板があるがかなり損傷が激しい為、読み取る事ができなかった。