因幡:鳥取城址(とっとりじょうあと)
築城者 :山名誠通
築城年代:天文年間
形 式 :平山城
遺 構 :石垣・門・堀・井戸
指定史跡:国指定史跡
訪問日 :平成30年08月29日
歴史
鳥取城は天文年間に山名誠通(やまなのぶみち)が築城されたと云われているが 近年の調査で誠通と敵対していた但馬:山名祐豊(やまなすけとよ)の付城説が有力である。
正式な城主の確認が取れるのは元亀元年の武田高信(たけだたかのぶ)からである。
高信は誠通滅亡後に但馬山名氏の分家として再興した因幡山名氏の家臣であったが、徐々に力をつけ鳥取城城主となる。
そして因幡守護:山名豊数を逃亡させると名目上の守護:豊弘を擁立させ実権は高信が握り事実上の下剋上を成功させる。高信はその後、本家筋の但馬山名氏と対立するようになった。
だが天正元年に但馬山名氏は高信を滅ぼすため尼子氏(あまごし)の残党と共に鳥取城を攻撃すると劣勢の高信は和議を結び 城を明け渡すが但馬山名氏の手により謀殺された。
鳥取城は因幡山名氏の手に戻るが同年に毛利氏が侵攻すると鳥取城は落城し今度は毛利氏の領土となる。
その後も毛利氏、山名氏、尼子氏残党による鳥取城攻城戦は繰り広げられるが天正八年に織田信長による中国攻めで鳥取城は羽柴秀吉の軍勢に攻め寄せられ三ヵ月の籠城戦の末に但馬守護:山名豊国は降伏を申し出る。
だが同月、今度は毛利氏の来訪で豊国は毛利氏に再度の降伏を行い鳥取城は毛利氏の管轄下となる。
そして同九年に毛利氏重臣:吉川経家(きっかわつねいえ)が入城する。
経家は鳥取城を改築し織田氏の襲来に備えると秀吉は鳥取城が難攻不落の城と決め兵糧攻めを行う。
この兵糧攻めは四ヵ月も続き二十日分の食糧しか蓄えていなかった鳥取城は凄惨たる状況に陥る事となる。これが世に言う「鳥取城の渇殺」である。
この状況に経家は自決と引き換えに城兵の助命を条件とする開城を行った。
鳥取城落城後は秀吉の与力であった宮部継潤(みやべけいじゅん)が城代をつとめると秀吉政権下の九州征伐で功を挙げ正式に鳥取城城主となる。
しかし慶長五年に勃発した「関ヶ原の戦い」で宮部氏は西軍に与し敗戦すると池田氏が鳥取城に入城し近世城郭へと改修し以後明治時代まで池田氏の居城となった。
現在
現在の鳥取城址は久松山(きゅうしょうざん)に多くの遺構を残している。
山麓の久松公園から山頂まで行く事が可能で山頂部には戦国時代の石垣や櫓跡が残っていた。
池田氏時代に造られた天球丸や三階櫓跡が山麓に残っており、鳥取城の遺構の中でも得に有名な遺構だ。
また復元城門が建てられており鳥取城址唯一の建造物でもある。
この様に多くの見所が多く今でも鳥取城址には多くの方が来られている。
山頂までも登山道が整備されて要るために比較的訪れやすい場所にもなっている。
麓には吉川経家の銅像も建てられており名将として仰がれている。
日本100名城スタンプ設置場所
鳥取城址内「仁風閣」内