播磨:赤穂城址(あこうじょうあと)
築城者 :浅野長直
築城年代:慶安元年
形 式 :平城
遺 構 :天守台・復元櫓・復元門
指定史跡:国指定史跡
訪問日 :令和元年09月14日
歴史
赤穂城は慶長五年に勃発した「関ヶ原の戦い」により功をあげた池田輝政(いけだてるまさ)が播磨国に入国すると、弟:長政が赤穂領主となりこの地に築城を行った事が始まりとされる。
赤穂城は池田氏の居城として栄え長政の次に輝政の二男:忠継、元和元年には忠継の弟:政綱が城主となる。
だが正保二年に政綱の弟:輝興の時代に「正保赤穂事件」が起き輝興が改易されると浅野忠直が三万五千石で入邦する。
忠直は慶安元年に幕府の許可を得て城を造営し寛文元年に現在の赤穂城が完成する。
延宝三年に忠直の孫:長矩が九歳で播磨赤穂藩主を継ぎ三代目藩主となる。
しかし元禄十四年、江戸城内にて吉良義央(きらよしひさ)を切付け長矩は切腹と処せられると浅野氏は改易となる。
同十五年に浅野氏の代わりに永井氏が入邦するが、旧浅野氏の家臣達が長矩の無念を晴らす為に吉良邸へ仇討を仕掛け義央を討ち取る事件が起きてしまう。
この事件を世に言う「元禄赤穂事件」で別名は赤穂浪士による忠臣蔵である。仇討を行った赤穂浪士四十七名は全員切腹と処されるがその生き方は多くの方から称賛された。
赤穂城は永井氏が宝永三年まで城主をつとめ、それ以降は森氏が入邦し明治時代まで森氏が城主をつとめた。
現在
現在の赤穂城址は赤穂城跡公園として整備されている。
天守台や復元櫓、門や石垣、庭園が整備されておりその規模はとても約五万の小大名とは思えない程の広大な造りをしている。
赤穂城と言えば忠臣蔵として多くの方に知れ渡っており公園内には赤穂浪士を祀っている大石神社や大石邸長屋門も整備されていた。
また本丸表門などは歴史ドラマの撮影スポットにもなっており、多くの方が観光に来る場所となっている。
現在復元中の場所もあり今後の復元に期待したい。
この地は日本人の多くが知る事となる忠臣蔵の歴史的な場所だと思うと高揚感を覚えてしまった。
日本100名城スタンプ設置場所
本丸櫓門下
赤穂市立歴史博物館