信濃:上田城址(うえだじょうあと)
築城者 :真田昌幸
築城年代:天正十一年
形 式 :平城
遺 構 :櫓・門・石垣・曲輪
指定史跡:国指定史跡
訪問日 :令和元年08月10日
歴史
上田城は天正十一年に名将:真田昌幸(さなだまさゆき)が築城した。
真田氏は甲斐国守護:武田氏の家臣だったが天正十年に武田氏が織田氏によって滅ぼされると徳川氏に与(くみ)していた。
だが統率者であった織田信長が本能寺の変で死去すると甲斐・信濃は争奪戦となる。
その争奪戦は「天正壬午(てんしょうじんご)の乱」と呼ばれ昌幸は越後の上杉氏に備えるため上田城を築城した。
しかし同十三年に徳川家康が信濃の覇権を争っていた北条氏と和睦し真田氏の所領である沼田城の明け渡しを言い渡されると昌幸は徳川氏と離縁し上杉氏に与する事とした。
家康は昌幸の行動に激怒し上田城を攻めるが戦上手の昌幸によって徳川勢は返り討ちとなった。これが「第一次上田合戦」と呼ばれている。
その後、慶長五年に勃発した「関ヶ原の戦い」で再度徳川勢を上田城で迎え撃つ事となった昌幸は徳川秀忠率いる総勢五万の大軍を足止めし、秀忠は関ヶ原の戦いに参陣する事が出来なかった。
この戦いは「第二次上田合戦」と呼ばれ上田城は名城として名を轟(とどろ)かせた。
しかし関ヶ原の戦い後に西軍に味方した昌幸は高野山に謹慎を言い渡され領土は長男の信之が継ぐ事となった。
真田氏は元和八年に信州松代(まつしろ)へ移封されると仙石(せんごく)氏が入城した。
仙石忠政は上田城の改修を行うが寛永五年に忠政が病死すると改修は中断された。
宝永三年に仙石氏が移封されると松平氏がかわって入城し明治時代まで松平氏の統治となった。
現在
現在の上田城址は上田城址公園として整備されている。
名将:真田昌幸の居城として徳川勢を二度追いやった名城は既に有名なのだが遺構として櫓や門、石垣などを残している。
上田城址公園に車を止め城址を望むと巨大な石垣が姿を見せその石垣の上に櫓が出迎えてくれる。
最大で七基の櫓と二基の櫓門が建てられていたが現在は三基の櫓と一基の櫓門が復元されて残されている。
また本丸跡には真田神社が祀られており「落ちない上田城」として多くの受験生が訪れているみたいだ。
その真田神社の裏手には井戸が残されておりこの井戸は抜け道があるとも云われている。
多くの方が訪れている名城を是非時間をかけて楽しんで欲しい。
日本100名城スタンプ設置場所
上田市立博物館
上田市観光会館