豊前:長野城址(ながのじょうあと)
住 所 :福岡県北九州市小倉南区長野
築城者 :長野氏
築城年代:不明
形 式 :山城
遺 構 :畝状堅掘群・曲輪
指定史跡:未指定
訪問日 :令和元年12月28日
築城者 :長野氏
築城年代:不明
形 式 :山城
遺 構 :畝状堅掘群・曲輪
指定史跡:未指定
訪問日 :令和元年12月28日
歴史
長野城の築城年代は不明だが長野氏によって築城された。
長野氏は左大臣:平時盛の六男:康盛が豊前の国司に任命され保元二年にこの地に訪れ長野姓を名乗ったのが始まりと言われている。
そのため長野城も保元二年に築城された説が有力となっている。
だが長野氏は応永六年に大内氏に攻められ降伏している。
応仁元年になるとこの地の覇権をかけ大友氏や少弐氏が侵攻すると長野氏は大友氏の助力となった。
その後に長野氏は再度大内氏の被官になるが明応七年に大内義興(おおうちよしおき)の怒りを買った長野助氏は長男と共に切腹を命じられ次男:岩松丸は出家する。
最後は天正年間に長野氏は国替えとなると長野城も廃城となった。
現在
現在の長野城址は曲輪や堀切など多くの遺構を残している。
この城址の一番の見所は日本最大と言われている畝状堅掘群だろう。
縄張りも複雑で二の丸から本丸まで行く途中に多くの遺構が残されているが多少保存状況が良くない事が残念だ。
だが200条に及ぶ畝状堅掘(うねじょうたてぼり)は城跡地多くで確認出来この城の防御力の高さが分かる。
国内最大の畝状堅掘群が見られる長野城址だが長野緑地公園から林道を通り城址まで行く道のりは近年土砂崩れ等で通行止めになっている。
徒歩で進む事は可能だが所々で土砂崩れの箇所や道路が破損している場所があるので十分に注意して欲しい。