豊前:城井郷城址(きいのこじょうあと)
築城者 :宇都宮信房
築城年代:不明
形 式 :山城
遺 構 :石塁・米倉跡
指定史跡:未指定
訪問日 :平成28年05月08日
歴史
城井郷城址の築城年代は定かではないが宇都宮信房(うつのみやのぶふさ)が築城した城だ。
宇都宮氏は下野国の豪族であったが建久七年に源頼朝の命によって豊前に赴き「城井」姓を名乗るようになった。
城井氏は溝口館に居住していたが戦時はこの城井郷城に立て篭もっていた。
入口には 三張弓の岩がありこの場所に弓兵が籠れば幾戦の兵で防ぐ事が出来たと云われている。
時は流れ宇都宮十八代当主:鎮房は豊後の大友氏に属していたが、薩摩:島津氏との戦いで大友氏は急激に勢力を弱め豊臣秀吉に救援を頼み島津氏を撃破した。
だが天正十五年に秀吉はこの地を黒田如水に与えると宇都宮氏は伊予の今治へ国替えを命じられるがこれを拒否し秀吉に朱印状を返上し戦準備に入った。
これにより黒田官兵衛、長政親子による城井郷城を含む城井谷攻めが始まるが、鎮房は地の利を生かし奇襲を仕掛け黒田隊の撃破に一度は成功するが、如水の策により持久戦に持ち込まれると徐々に孤立無援になり鶴姫を人質に出す事で和議を結んだ。
だが宇都宮氏を災いの種と考えていた官兵衛は宇都宮氏の掃討を画策し天正十六年に鶴姫と長政の婚姻との事で鎮房を中津城に誘き寄せる。
この酒席で鎮房は暗殺されると家臣達も中津城近くにある合元寺で打ち取られ、鎮房の息子も殺されてしまい宇都宮氏は滅んでしまう。
その後に城井谷一帯は黒田領土となり城井郷城は廃城となると里人も寄り付かない地となってしまった。
現在
現在の城井郷城址は地元住民方の協力により整備され良好な形で残っている。
天然の要塞であった通り周囲は巨岩に覆われ入口、裏門共に天然の岩場であり特に裏門は鎖伝いで登らないと行けない程の急勾配になっている。
城内には石塁や米倉跡が残っているが周囲が巨大な岩で囲まれている為に落石にも注意を払って貰いたい。
裏門を鎖伝いで登ると城址の頂きまで進む事が出来るがここも鎖伝いで登る事になるので十分に注意しながら散策を行う事になる。
頂上は監視場となっていた様だが景観は最高で夏場に来ると山間を抜ける心地良い風が吹いている。
鎮房はこの地に留まる事を希望したが、最終的には官兵衛の策に嵌ってしまい一族諸共滅んでしまうが民からの信頼は厚く、その死を大層悲しんだとも云われ付近には宇都宮氏を慕う場所が多々残っている。