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筑前:鷹取山城址(たかとりやまじょうあと)

住 所 :福岡県直方市永満寺
築城者 :永井宗久
築城年代:永承元年
形 式 :山城
遺 構 :石垣・土塁・空堀・畝状阻塞
指定史跡:未指定
訪問日 :平成25年6月9日

歴史

鷹取山城は永承元年に長谷川吉武の宿老:永井宗久によって築城された。
その後は筑紫氏代々の居城となり天文年間には大内氏の家臣:毛利鎮実の居城となる。
天文十一年に大友宗麟が筑前へ侵攻し鷹取山城に攻め寄せると鎮実は降伏して大友領となる。天正年間には大友氏と島津氏の対立が激化し鷹取山城は島津軍に包囲され食糧難に陥ってしまうが、立花山城城主:立花道雪の機転により食糧を援助して貰い窮地を脱する事ができた。
天正十四年には筑紫広門が在城しているが島津氏の侵攻を許し鷹取山城は落城してしまう。
慶長六年には関ヶ原の功により筑前に入封された黒田長政が筑前の防塞の要に一つとして家老:母里太兵衛(もりたへえ)を居城させ豊前との警備の強化につとめたるが慶長十一年に黒田氏家老:後藤又兵衛が主君長政との確執により逐電すると、太兵衛は益富城へ移動なり手塚氏が入城した。
その後は元和元年の一国一条令により破却となってしまう。

現在

現在の鷹取山城址は鷹取山の山頂や中腹に石垣や土塁が多く残っている。
直方市教育委員会の方々によって現在も発掘調査中でもある。
鷹取山は福智山の支峰であり福智山山頂から見る鷹取山城址はとても景観であり多くの登山者達から愛されている。
見所は中世の城郭の中では群を抜いて標高が高く近世城郭の中では例が無いほどの高さにある城址で石垣が残っている。
また益富城と同じく黒田節で有名な母里太兵衛の居城としても多く知られている。
その太兵衛は福智山が日本一の高さを誇る山だと生涯思っていた様で、家臣達にも言い聞かせていたと伝わっている。

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