kyusyu.sky.net

歴史

  
  
  
  
  
  

加藤清正が築城した熊本城だが、元は文明年間に肥後守護:菊池氏の一族である出田秀信(いでたひでのぶ)が千葉城を築城したのが始まりだ。
 肥後に圧倒的権力を保持していた菊池氏の一族だった出田氏だが、享禄年間時代に勢力が衰えてしまった為に、玉名地方に領土を持つ鹿子木親員(かのこぎちかかず)に新城として 隈本城を築城し本拠とした。
 しかし、天正六年に耳川の戦いで薩摩:島津氏に大敗を喫した大友氏は急激に弱体化し、島津氏が九州制覇に乗り出すと、 宗麟は豊臣秀吉に救援を要請するが、島津義久によって肥後国は占領されてしまう。
 天正十五年には、秀吉の率いる九州征伐軍が島津氏を制圧し、遂に降伏に成功すると、肥後国は秀吉の家臣:佐々成政(さっさなりまさ)が領主となる。だが過酷な太閤検地を行った為に、 一揆が勃発してしまい、成政は責任を取らされ切腹し、代わりに北肥後国領主に任命された加藤清正が隈本城に入城した。
 隈本城に入城した清正は新城築城に着手するが、築城の途中で関ヶ原の戦いが起こり、東軍に属した清正は勝利に貢献して肥後国一帯を与えられる。そして遂に、慶長十一年熊本城は完成する。
 清正の死後は嫡男:忠広が後を継ぐが、当主の器でなかった忠広は混乱を招き御家騒動を勃発、加藤氏は改易されてしまう。寛永九年に細川忠利(ほそかわただとし)が入城するも財政はかなり疲弊しており、幕府に援助を要請し損壊していた熊本城の大規模修繕を行う。それが現在の縄張りになっている。
 その後、細川氏の主城として明治時代を迎え、明治十年の西南戦争で西郷隆盛(さいごうたかもり)率いる軍に、猛攻撃を受ける。 しかし、清正思案したといわれる「武者返し」とよばれる石垣は、西郷軍を寄せ付けず、撃退させた。このことで、熊本城が不落の堅城だということを名実ともに実証されたといえるであろう。
籠城する事が決まった後、「射界の清掃」のために市中に火が放たれ、天守も火災になるなどで、多くの建物を焼失したが、宇土櫓(うとやぐら)や東竹之丸の櫓群など、築城当時の建物も残っており、それらは国の重要文化財に指定されている。


現在

  
  
  
  

現在、熊本城は平成28年に起きた熊本地震で甚大な被害が出ており、復興に向けて修繕を行っている。
熊本地震で多くの遺構や復元建造物が倒壊し、修繕には時間を要すると云われていたが、力強く復元が進んでいる。
難攻不落の名城であり「日本三大名城」に選ばれている熊本城は必ず元の美しい形に復元される事を多くの方が待ち望んでいる。
※掲載写真は上段が復興前で下段が復元中の写真として纏めている。


Copyright(C) 2020,All rights are reserved by Yuichi Ishii
当サイトページを無断で転載、複製、改変等の行為は禁じます。