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歴史

  
  
  
  
  

花尾城は建久七年に宇都宮重業が築城した城と云われているが、築城年代に関しては正式には分かっていない。
重業は関東の名門、宇都宮氏の一族と思われており、この地で麻生荘の地頭代職となると麻生性を名乗るようになる。
永享年間には大内氏の配下となり、文明年間には麻生氏の家督相続が起こると大内氏が介入し花尾城に立て籠もった麻生家信を攻めるも、三年に及ぶ籠城戦を行った家信の前に 落城させる事が出来ず、和議を結ぶ事となった。
だが、大内氏は麻生氏を追放すると花尾城も大内氏の配下となるが、天文二十年に隅晴賢が大内氏に反旗を翻し、大寧時の変を起こすと大内氏は滅びその隙を狙い麻生氏は 花尾城に帰還する。
天正十四年には、豊臣秀吉による九州征伐の際に花尾城城主:麻生家氏は秀吉に降伏し筑後へ国替えとなるとこの地は小早川隆景の領土となる。
一時は番城として機能したと思われる花尾城だが、何時しか廃城となった。


現在

  
  
  
  
  

現在、花尾城址は花尾山山頂や中腹に多くの遺構を残している。
城址へは東、西、中央の三か所の登山道があるが、遺構を楽しむなら中央登山道をお勧めする。この道は西櫓台や四の丸、三の丸、二の丸へと進み本丸に行く事が出来る。
本丸跡地は二段に分かれており周囲には石塁や曲輪がある。
だが、この城址の一番のお勧め場所は本丸址地から進んだ所にある井戸跡と井戸曲輪と呼ばれる場所で、この場所には石段や石垣が良好な形で大規模な遺構を残している。
また、井戸曲輪から進むと大堀切の遺構があり、深さや広さが十分に確認出来るほど、素晴らしい形で残っている。
他にも多くの場所に畝状竪堀を確認する事が出来るのだが、森林や雑草が邪魔をしておりよく見る事が出来なかった。
更に奥へ進むと東出丸が残されており、西登山道と東登山道の分岐地点にもなっており、この場所が最奥の城址となっている。
西登山道側に進むと何故か中腹の寂しげな場所に巨大な花尾城址碑が建てられており、その碑の前には百年後に掘り起こすタイムカプセルの目印が残されていた。
遺構としては「見応えがある」の一言に尽きる場所だが何故か、指定史跡にはされていない。


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