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歴史

  
  
  

長野城の築城年代は不明だが、長野氏によって築城された。
長野氏は左大臣:平時盛の六男:康盛が豊前の国司に任命され保元二年この地に訪れ、長野姓を名乗ったのが始まりと言われている。
その為、長野城も保元二年に築城された説が有力となっている。
だが、長野氏は応永六年に大内氏に攻められ降伏している。
応仁元年になるとこの地の覇権をかけ、大友氏や少弐氏が侵攻すると長野氏は大友氏の助力となった。
その後、長野氏は再度大内氏の被官になるも明応七年に大友義興(おおともよしおき)の怒りを買った長野助氏は長男と共に切腹を命じられ、次男:岩松丸は出家する。
最後は天正年間に長野氏は国替えとなると長野城も廃城となった。


現在

  
  
  

現在、長野城址は曲輪や堀切など多くの遺構を残している。
この城址の一番の見所は日本最大と言われている畝状堅掘群だろう。
縄張りも複雑で二の丸から本丸まで行く途中に多くの遺構が残されているが、多少保存状況が良くない事が残念だ。
だが、200条に及ぶ畝状堅掘(うねじょうたてぼり)は城跡地多くで見る事ができ、この城の防御力を伺う事が出来る。
国内最大の畝状堅掘群が見られる長野城址だが、長野緑地公園から林道を通り城址まで行くのだが、林道は近年土砂崩れ等で通行止めになっている。
徒歩で進む事は可能だが所々で土砂崩れの箇所や道路が破損している場所があるので十分に注意して欲しい。


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