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歴史

  
  
  
  

柳川城は「柳河城」とも呼ばれ文亀年間、蒲池治久によって築かれた。
 蒲池氏(かまちし)の居城として栄えていたが、天正六年に鑑盛(あきもり)が、天正九年には後継ぎの鎮並(しげなみ)が相次いで死去し蒲池氏は滅亡してしまう。
 天正十五年に豊臣秀吉による九州征伐が行われ九州は、秀吉の管轄下になると 筑前立花山城城主:立花宗茂(たちばなむねしげ)が柳川城に入封するも、関ヶ原の戦いで宗茂が西軍に味方した為、改易となる。
 その後、田中吉政(たなかよしまさ)が三河から移領し柳川城を本城とした。
吉政は柳川城・久留米城などを修築したが、元和六年に二代目城主:忠(ただ)政(まさ)が死去すると、柳川城は再び立花宗茂が入封、徳川政権で一度改易されてから唯一、返り咲いた大名となる。その後立花氏十二代の居城として明治時代を迎えた。
蒲池氏の時代に大友氏との戦の最中に大友氏陣中で 「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」の戯れ歌が有名で 柳川城攻略には3年掛かると言われる程の難攻不落の名城でもあった。


現在

  
  
  

現在、柳川城址は柳城中学校グランドの片隅に天主台などが残っている。
明治時代初期には天守閣を誇り、柳川特有の川を利用した天然の要害であったが、 火災や台風によって遺構の多くは壊滅してしまった為、柳城中学校と柳川高校の間に多少の石垣などが残っていた。
昔は五層五階の天守閣が有った城址にしては多少残念だが、天守台も確認する事ができ、近年では柳川城復元に向けた動きもある様だ。
また、近くには柳川城水門や柳川川下りで有名な川もあり、観光地としても有名な場所になっている。


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