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歴史

  
  
  

立花山城は元徳二年に大友貞載(おおともさだのり)が築城した。
貞載は後に、この地名から姓を「立花」とし、大友氏の有力な家臣として立花山城の守護として居城するが、永禄十一年に大友氏の有力家臣:秋月、高橋の2氏が大友氏に叛き、立花鑑載(たちばなあきとし)も大友氏を離脱し毛利元就(もうりもとなり)と共闘する。  当時、大友宗麟(おおともそうりん)の暴君振りに内部は崩壊状況にあり家臣の離脱が頻繁に行われていた。だが、立花鑑載の離脱に宗麟は激怒し同年、3万の大軍をもって立花山城を落城させ鑑載は自害した。
 その後、立花山城は毛利氏と大友氏の激戦地となるが、元亀元年に宗麟は、 戸次丹後守鑑連に立花氏を継がせ、立花山城主とし、名を立花道雪(たちばなどうせつ)と改名する。 その後も立花氏の居城として栄えるが、薩摩:島津氏の九州制覇で大友氏が弱体化すると、島津氏は立花山城にも進軍するが、当時弱冠二十歳の城主:立花統虎が応戦、激戦の末に落城は免れ、島津氏は豊臣秀吉の援軍の前に薩摩への撤退を余儀なくされた。
 九州も秀吉の管轄下になると秀吉の命により統虎は、柳川城主となり立花山城には小早川隆景(こばやかわたかかげ)が入城する。 隆景は名島城を築き主城とするも、 慶長六年に黒田長政が筑前国に移封すると、福岡城を築城し立花山城は廃城となる。


現在


現在、立花城址は立花山山中に古井戸と石垣、山頂付近に曲輪・土塁・古瓦などが遺構として残している。
石垣は立花山登山口から進んで行くと所々で確認する事ができ、特に山頂付近から松尾岳方面に進むと多くの石垣を見る事ができる。
山全体が城として機能していた事が想像できる。
巨大な防衛能力を誇る城址の遺構を楽しめる山だが、今では地元の方がハイキング目的として登山を行っている。


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