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歴史

  
  
  

久留米城は永正年間、この地の土豪(どごう)が拠点としていた城で、 筑後川沿いの小高い山に築かれたのが始まりで高良山(こうらさん)勢力の出城だった説が有力だ。
   その後、大友氏と龍造寺氏の覇権争いで、当城も重要拠点として度々戦火に巻き込まれ、幾度となく城主が替る。
 天正元年には、高良山座主良寛(りょうかん)が城主として居城しているが、座主の座を巡って兄弟で闘争を繰り返しており、天正十五年に豊臣秀吉の九州征後に毛利秀包(もうりひでかね)が入城すると、本格的な改築に着手し大規模な城郭となった久留米城には次男:則政が城主となる。
 だが、関ヶ原の戦いで毛利氏が断絶すると田中吉政(たなかよしまさ)が筑後一国の主となり、久留米城は筑後北部の拠点でもあった。 しかし、元和六年に吉政の子、忠政が嗣子無く没すると田中氏は徐封となる。
元和七年に有馬豊氏(ありまとようじ)が大坂の陣で功績を挙げ入城すると、田中氏が行っていた城普請を再開するも、度々構築や再整備が必要となり完成は、四代:頼元の時代まで歳月を要する事となる。 その後、明治時代まで有馬氏の居城として使用された。


現在

  
  
  

現在、久留米城址は石垣や堀など、多くの遺構を残している。
天守台跡には有馬三氏を祀る、篠山神社や有馬記念館があり、地元住民の方の参拝の場所となっている。
 久留米市内より離れた場所にある為か、余り人通りはないが、巨大な石垣や濠、櫓跡といったと遺構は良好な形を残しており、遠くからでも城址だとすぐに気付く規模を誇っている。
 近辺には筑後川が流れており戦略上に非常に重要な城だと分かる造りをしている。
素晴らしい遺構を残している久留米城址は必見の城址だ。


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