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歴史


岩屋城は天文年間に宝満山城の支城として豊後の大友氏家臣:高橋鑑種(たかはしあきたね)により築城された。鑑種は主君大友宗麟(おおともそうりん)の傲慢な振る舞いに反旗を起こすが城を追われる形となり、これに伴い吉弘鎮種(よしひろしげたね)が「高橋」を継ぎ、高橋紹運(たかはしじょううん)と名のり岩屋城主となる。
 だが、天正十四年に九州制覇の為、進軍して来た薩摩:島津氏が耳川で大友氏を打ち破ると、その勢いで大友氏領土に侵攻、島津軍は岩屋城に押し寄せ、その数2万の大軍に囲まれてしまう。大友氏本軍も苦戦を強いられ援軍を送る事が出来ず、孤立状態に陥った紹運は、降伏勧告を拒絶し籠城する。 この時、紹運は約763名の兵と共に奮闘するも、秀吉の救援が来る前に岩屋城は陥落し紹運は自害してしまう。 その後、島津軍は宝満山城を落城させ、更に進軍するが紹運の実子で、後 の名将:立花宗茂(たちばなむねしげ)が籠る立花山城 を攻略出来ず、遂に秀吉の救援が到着し島津軍は撤退する。 後に、岩屋城攻略に苦戦を強いられた事が島津氏の九州制覇達成に大きな妨げになったと云われている。


現在


現在、岩屋城址は岩屋山中腹に土塁等の遺構を残している。
本丸址に在る石碑は岩屋城の籠城戦の凄まじさを物語っている。
今この城址は、展望台のようになっているが、その昔ここで九州の歴史を担う戦があったのだと思うと、歴史的な場所だと言えるだろう。
もし紹運が生き延びていたら大友氏の結末も変わったはずだと云われているが、 この地に来たら是非、城跡から道を隔てた場所にある「高橋紹運の墓」にも足を運んでみると良いだろう。


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