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歴史

  
  
  
  
  

小谷城は大永三年頃にこの地の領主であった浅井亮政(あざいすけまさ)が築城したと云われている。
正式な築城年代は不明だが、大永五年に六角氏(ろっかくし)が江北に侵攻した際に小谷城に籠城している事からその直前に築城されたと推測されている。
浅井氏はこの城を拠点として勢力を増す事となり、城も拡張されていった。
浅井長政時代の永禄十年、長政は織田信長の妹:お市と結婚する事で織田氏と婚姻同盟を結ぶと、翌年に信長は京への上洛途中で六角氏を撃破すると、六角氏の近江への勢力は衰退する。
だが、元亀元年に信長は越前国:朝倉氏を徳川家康との連合軍で攻撃すると、朝倉氏とも同盟関係だった浅井氏は熟考の末、信長を見限り朝倉氏に加担した。 長政は織田・徳川連合軍の背後を襲撃すると、連合軍は崩れ信長も危うくなるが、木下藤吉が殿で奮闘し信長は近江から脱出した。
怒り心頭の信長は、同年六月に再度徳川家康と連合を組み、姉川で浅井・朝倉軍を破るも、本願寺への対応等があり、直ぐに侵攻する事が出来なかった。
その後、信長は近江に襲来する事はあったが、戦況は膠着状況となる。
しかし、信長は敵対する隣国を蹂躙(じゅうりん)する。天正元年に3万の大軍で北近江に押し寄せ、援軍に駆け付けた朝倉氏を撃破し、勢いのまま越前国に侵攻し朝倉氏を滅ぼした。
完全に孤立した長政が籠る小谷城に総攻撃をかけ、長政と父:久政は自害。浅井氏は滅亡し小谷城も落城した。
浅井氏滅亡後、江北は羽柴秀吉に与えられるも、秀吉は長浜に新城築城を行い、小谷城はその資材として使用され廃城となった。


現在

  
  
  
  

現在、小谷城址は小谷山に多くの遺構を残している。
日本五大山城の一つに数えられる名城は、余りにも多くに遺構が点在している為、案内板や観光MAPで事前に確認する事をお勧めする。
麓から、大嶽山山頂まで登山道から遺構を楽しむ事をお勧めするが、中腹まで車で行く事も可能になっているので、時間に余裕が無い方にはこちらをお勧めしたい。
その中腹から、本丸跡地までは徒歩10分程で、その本丸跡には野面積の石垣が確認でき、他にも曲輪や井戸跡も観る事が出来る。
そこから、詰めの城でもある大嶽まで中丸、京極丸、小丸、山王丸、月所丸など多くの遺構を楽しめること間違いないだろう。
多くの遺構の中で、山王丸の大石垣と本丸と中丸の間になる大堀切は是非見て頂きたい。
それと、とても印象深かったのが、城跡入口に「クマ出没注意」の看板があったことだ。
もし、遭遇していたらどう対応して良いか全く思いつかなかった。
訪れる際には、心して行かれる事をお勧めする。


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