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歴史

  
  
  
  
  
  

佐和山城は鎌倉時代に佐保時綱(さぼときつな)が築城したと云われている。
時綱は、近江守護職佐々木荘地頭:佐々木定綱(ささきさだつな)の六男で、当初佐和山城は砦として築かれた。
築城年代は、建久年間に築城されたと伝記に記載されている。
室町時代になると、六角氏が犬上群を支配し応仁の乱後は、六角氏家臣:小川左右大輔が城主を勤めている。
だが、戦国時代になると浅井氏が勢力を延ばしてくると、六角氏は衰退し佐和山城も浅井氏の持城となり浅井氏拠点の小谷城の支城となった。
しかし元亀年間になると、浅井氏と織田氏の間で争いが勃発、佐和山城も戦火に巻き込まれる事となる。
佐和山城城主:磯野員昌(いそのかずまさ)は信長と十ヵ月にも及ぶ激闘を繰り広げるも、元亀二年佐和山城は遂に開城し織田氏の軍門に降った。
佐和山城は織田氏家臣:丹羽長秀(にわながひで)が入城し北近江と若狭国の拠点として使用された。
天正十年になると、本能寺の変で織田信長が倒れると、豊臣秀吉が織田氏の実権を握るようになると、佐和山城は重要拠点として堀秀政が入城、同十三年に転封すると、堀尾吉晴が入城する。
吉晴は佐和山城を改修する。天正十九年になると、秀吉の子飼いでもある石田光成が入城、光成は佐和山城の大改修を行うと、 山頂に五層の高大な天守が聳え立つ程の近世城郭を築き、当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめた。
だが、慶長五年に起きた「関ヶ原の戦い」で西軍総大将の光成は東軍:徳川家康の前に一敗地を喫すると、勢いに乗る東軍は佐和山城の攻撃を開始する。
城主不在の中、城兵は奮闘するも敢え無く佐和山城は落城した。
翌慶長六年には、関ヶ原の戦いで戦功を挙げた徳川四天王の一人:井伊直政が佐和山城に入城し、 彦根山に新城築城を決意するが直政は同七年に関ヶ原の戦いの傷が原因で死去するが、跡を継いだ直継が彦根城を築城し佐和山城は廃城となった。


現在

  
  
  

現在、佐和山城址は佐和山の山頂に遺構を残している。
佐和山山頂には、龍潭寺・清涼寺から登山道が延びており、約30分も有れば山頂まで行く事が可能だ。
山頂には、土塁や曲輪、多少の石垣に井戸跡が残されている。現在は、憩いの場として山頂に多くの方が来られている。
また宗安寺に表門が、高源寺に裏門が現存移築として残されている。
多くの激闘を繰り広げ、石田光成の居城として名高い佐和山城址だが残念ながら多くの遺構は残されていなかったが山頂から眺める景色は絶景だった。


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