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歴史

  
  
  
  

芥川山城は永正十二年頃、細川高国によって築城された。
その後、細川政元が淡路より勢力を広げ芥川山城に入城すると、城を増設し防衛機能を拡げた。
政元は後に京で官僚に就き、京と芥川山城を行き来する事となるが、天文八年に三好長慶(みよしながよし)が政元を京都より追い出し、芥川山城も長慶の領土となる。
両者間で一度は和議を結び、芥川山城から長慶は撤退するも、細川氏同族間で争いが起こると、その隙を突き天文十六年に長慶が芥川山城を落城する事となる。
その後、三好氏の拠点として長らく使用され、永禄三年に長慶は飯盛山城に移ると、息子の長興が城主となった。
だが、三年後の永禄六年に長興が、翌七年には長慶が相次いで死去すると、三好氏は徐々に衰退していく。
そして、永禄十一年に織田信長が摂津に侵攻すると芥川山城は信長の手により落城する。
信長の支配下となった芥川山城は摂津三守護:和田惟政(わだこれまさ)が入城し城主となる。
惟政は翌年に起きた本圀寺の変で功を挙げると高槻城も与えられた。
しかし、惟雅が近隣諸国と確執が生じるようになると元亀四年、家臣であった高山友照(たかやまともてる)・右近(うこん)親子によって和田氏は滅ぼされると、 芥川山城も廃城となった。


現在

  
  
  

現在、芥川山城址は三好山山頂部や東の尾根部分に多くの遺構を残している。
三好山へは幾つかのルートが有り、どのルートでも城址の遺構を楽しむ事が出来るが、大手筋から登頂すると山頂までの距離は短く石垣などを確認出来る。
山頂部には曲輪や慶喜を祀った社が建てられており、この場所から観る高槻市は絶景だ。
麓の農道にも古い石垣が残されているが、これは後世に築かれたもので山城の石垣とは直接の関係は無い物だ。


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