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歴史

  
  
  
  

高松城の築城年代は定かではないが、松山城主:三村氏の家臣である石川氏が築城したと言われている。
 天正三年に起きた「備中兵乱」で毛利氏の猛攻を受けた三村氏は滅亡し、高松城は名将:清水宗治(しみずむねはる)の居城となる。
天正十年に、織田信長による中国攻めの際に、羽柴秀吉による高松城攻めが始まる。 周囲を沼地に囲まれた当城は難攻不落で持久戦となるも、黒田孝高(くろだよしたか)の策により 高松城周辺を堤防で囲み、沼地に川の水を流し込む水攻めが行われた。これが世に言う「高松城の水攻め」である。
だが、その最中に「本能寺の変」が起き、信長が死去すると秀吉は明智光秀との決戦を決意するが、それには毛利氏と和睦を結び必要があった。
そこで、毛利氏の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を仲介として宗治の自害を条件に和睦を結ぶ。宗治は城兵の命と引き換えに切腹する。 宗治の生き様は多くの方が感動させ今でも語り継がれている。
その後、高松城は宇喜多氏、花房氏が入城し一国一城令が出るまで花房氏の居城となった。


現在

現在、高松城址は高松城址公園として整備されている。
日本史に残る戦場となった城址だが、遺構として曲輪や築堤跡を残している。
そこまで、大きな見所が無く同公園内にある資料館に「高松城水攻め」の詳細が説明している。
本丸跡地には清水宗治の首塚と辞世の句が有り、今でも地元住民の方がお供え物を行っていた。


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