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歴史

  
  
  
  
  

上田城は天正十一年に名将:真田昌幸(さなだまさゆき)が築城した。 真田氏は甲斐守護:武田氏の家臣だったが、天正十年に武田氏が織田氏によって滅ぼされると徳川氏に与(くみ)していた。
統率者であった織田信長が本能寺の変で死去すると、甲斐・信濃は争奪戦となる。
天正壬午(てんしょうじんご)の乱が勃発すると、昌幸は与する相手を替え家康に付くと、越後の上杉氏に備える為に上田城を築城した。
だが、同十三年に徳川氏は北条氏と和睦し、真田氏の所領である沼田城の明け渡しを言い渡されると昌幸は徳川氏と離縁し上杉氏に与する事とした。
家康は昌幸の行動に激怒し、上田城を攻めるも戦上手の昌幸によって徳川勢は返り討ちとなった。これが第一次上田合戦と呼ばれている。
その後、慶長五年に勃発した「関ヶ原の戦い」にて再度徳川勢を上田城で迎え撃つ事となった昌幸は徳川秀忠率いる総勢五万の大軍を足止めし、秀忠は関ヶ原の戦いに参陣する事が出来なかった。
この戦いは第二次上田合戦と呼ばれ上田城は名城として名を轟(とどろ)かせた。
しかし関ヶ原の戦い後、西軍に味方した昌幸は高野山に謹慎を言い渡され、領土は長男の信之が継ぐ事となった。
真田氏は元和八年に信州松代(まつしろ)へと移封されると仙石(せんごく)氏が替って入城した。
仙石忠政は上田城の改修を行うも寛永五年に忠政が病死すると改修は中断された。
宝永三年に仙石氏が移封されると、松平氏が替って入城し明治時代まで松平氏の統治となった。


現在

  
  
  

現在、上田城址は上田城址公園として整備されている。
名将:真田昌幸の居城として、また徳川勢を二度追いやった名城として有名な上田城址だが、櫓や門、石垣などの遺構を残している。
上田城址公園に車を止め、城址を望むとその巨大な石垣が姿を見せ、その石垣の上に櫓が出迎えてくれる。
最大で7基の櫓と2基の櫓門が建てられていたが、現在は3基の櫓と1基の櫓門が復元されて残されている。
また、本丸跡には真田神社が祀られており、「落ちない上田城」として多くの受験生が訪れているみたいだ。
その、真田神社の裏手には井戸が残されており、この井戸は抜け道があるとも云われている。
多くの方が訪れている名城を是非、時間をかけて楽しんで欲しい。


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