kyusyu.sky.net

歴史

  
  
  
  

引田城は築城者や築城年代はわかっていないが、室町時代末期に四宮左近(しのみやさこん)が居城していたと云われている。
元亀元年に、四宮氏は阿波国:三好氏に攻められ引田城は落城し、三好氏の配下となった。天正年間には、長宗我部氏と十河氏がこの地の覇権を争い引田城は主戦場となった。
更に、本能寺の変後に羽柴秀吉と柴田勝家が織田氏の後継問題から争いに発展すると、秀吉に味方する十河氏と、 勝家に味方した長宗我部(ちょうそがべ)氏で分かれ秀吉方の仙石秀久は淡路国を平定し、十河氏救援の為、引田城に入城し長宗我部氏と一戦交える。 だが、長宗我部氏の総攻撃の前に引田城は落城し、秀久は敗走した。
天正十三年、秀吉による長宗我部氏討伐軍(四国攻め)によって長宗我部氏は降伏すると再び秀久が引田城に入城した。
同十八年に讃岐一国を与えられた生駒氏が入城するも、引田城は讃岐の東端に位置している事や城が手狭な為、新たに高松城を築城すると、 生駒氏は高松城を拠点とし引田城は持城として元和元年の一国一城令まで使用された。


現在

  
  
  
  

現在、引田城址は城山と呼ばれる標高82mの小高い山の山頂付近に石垣や曲輪といった遺構を残している。
登山道は3つあるが主に引田港側か田の浦キャンプ場側の2箇所が主な登山道となっている。
今回、引田港側からの登山を行ったが、登山道は整備されており所々に地元住民の方が作った目印も点在する為、迷う事無く山頂を目指す事が出来た。
15分程度で本丸に着く事ができ、本丸跡地の算木積の石垣が確認できる。
北二の丸にはこの城址の最大の見所である高さ5〜6mの高石垣を見る事ができる。此方の石垣は野面積で出来ており、この地は御殿があった場所だと云われている。
また、城の東南には化粧池と呼ばれる人工の池が残されている。その名の通り女性が化粧を行っていたと云われる場所で籠城の際には重要な水源とされていた様だが、 この池周辺にも見事な石垣が残されている。
天守跡からみる景色も絶景だ。是非とも一度は立ち寄りたい場所である。


Copyright(C) 2020,All rights are reserved by Yuichi Ishii
当サイトページを無断で転載、複製、改変等の行為は禁じます。