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歴史

  
  
  
  
  
  
  

丸亀城は慶長二年に生駒親正(いこまちかまさ)が築城した。
丸亀城は亀山と呼ばれる標高66mの山に築城されたが、室町時代に官僚であった細川氏がこの地に砦を築いたのが始まりと云われている。
親正は織田氏、豊臣氏に仕え多くの手柄を立てると讃岐を秀吉より拝領し、高松城を本城とし 丸亀城は高松城への支城として築城された。
親正は慶長五年の「関ヶ原の戦い」には参戦せず在国していたが、在国中に西軍に与する行動を行った。 関ヶ原に参戦した息子の一正(かずまさ)が東軍に味方し奮戦した為、生駒氏は戦後本領安堵と共に一正が家督を継いだ。
丸亀城は慶長七年に完成すると、一正は高松城に本拠を移し丸亀城には城代を置いた。
しかし、元和元年の一国一城令により丸亀城は廃城になるが、当時の城主:正俊(まさとし)は丸亀城を樹木で隠し廃城を免れたとも伝えられている。
元和七年に正俊が死去すると小法師(後の高俊)が跡目を継ぐが幼少の為、外祖父である藤堂高虎(とうどうたかとら)が後見人となり藤堂家の家臣を派遣し藩政にあたらせた。
しかし、寛永七年に高虎が死去し高次が跡を継ぐが、それ以降も生駒氏の後見は続くと、徐々に生駒氏家臣と藤堂氏より派遣された家臣との間に亀裂が見え始めた。
これに対し高俊は藩政を家臣に任せていた為、特に対処は施さなかった。
両家の亀裂は日毎に深くなり寛永十四年には脇坂(わきさか)氏が仲裁に入り、高次も事の重大性を考慮し派遣した家臣を国許に戻す対処を行った。
だが、これで事は収まらず遂に高次、高俊間で話し合いが行われるも決裂した為、裁定は幕府に委ねられる事となった。これが世に言う「生駒騒動」である。
幕府は生駒氏に派遣されていた藤堂家家臣に切腹を命じ、高俊の無責任な対応の処遇として領地を没収する判決を言い渡した。これにより生駒氏は改易となった。
生駒氏改易後、山崎氏が讃岐に入封し丸亀城の大改修を行い現在に残る遺構として城を改築した。
明暦三年に山崎氏が断絶すると、京極氏が入封し明治時代まで京極氏の所領として栄える事となる。


現在

  
  
  

現在、丸亀城は現存天守や御殿表門、櫓門が残っている。
全国に十二か所しかない現存天守もお勧めだが、この城の一番の見所は何と言っても高石垣だろう。
丸亀城をより美しく現している石垣は最も高い所では20m以上の高さを誇っている。
特に麓から観るとその雄大さは一目瞭然で、遠望から観るだけでこの地に来た事に満足してしまう程だ。
標高が66mとそこまで高くないが、天守閣まで向かうには急勾配な坂を15分程度登る必要があり、その急勾配から「見返り坂」と呼ばれている。
本丸広場からは丸亀市を一望出来るが、その景観も絶景で楽しむ事が出来る。
丸亀市のシンボルといえるこの城は、見所沢山で一度訪れる事をお勧めする。


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