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歴史

  
  
  
  
  

竹田城は別名「天空の城」として有名な城址だ。 だが、築城年代に付いては不明な点が多く、永享三年に但馬守護:山名持豊(やまなもちとよ)が築城を命じ城代として太田垣光景(おおたがきみつかげ)を据えたと云われている。
この時期に山名氏は赤松氏と軍事衝突を起こす事となり、嘉吉元年に勃発する「嘉吉の乱」では、幕府討伐軍に加わり赤松氏討伐に貢献する。
持豊はその恩賞として、播磨守護となり勢力を拡大するがその後も、赤松氏と衝突は繰り返す事となり竹田城は播磨平定の重要拠点として使用された。
だが、応仁元年には細川氏と争う事となる。この争いは日本に大きな火種となり「応仁の乱」を招く事となる。その際に竹田城主:太田垣氏も合戦に参戦する。
応仁の乱後も細川氏や赤松氏と衝突を繰り返し、一時は播磨を平定するも徐々に赤松氏が勢力を盛り返すと、 山名氏は劣勢を強いられ、更に内紛が発生し山名氏は急速に勢力が弱まり、最後は赤松氏によって追放される。
天正元年には、赤松広秀(あかまつひろひで)は竹田城を攻略し竹田城城主:太田垣朝延は因幡に敗走すると、広秀が城主となった。
天正五年、今度は織田信長の播磨侵攻によって、但馬にも兵を進めると竹田城は羽柴秀吉により落城し、羽柴秀長(はしばひでなが)が城主となった。
同十三年には、秀吉に降伏していた赤松広秀が再度城主となると城を改築し、現在の縄張りとなった。
だが、広秀は慶長五年に起きた「関ヶ原の戦い」にて西軍に加担するも西軍敗退後、自刃し竹田城も廃城となった。


現在

  
  
  
  

竹田城址は現在虎臥山(とらふすやま)山頂に石垣等多くの遺構を残している。
冬季の雲海が多く張る季節には、その雲海上に浮かぶ城として有名で多くの方が観光スポットとして訪れている。
山頂には多くの現存石垣や曲輪、絶景の眺めを堪能出来る天守台が残されている。
とても有名な城の為、麓からの山道も良く整備され、城址も見学コースが整備されており安心して城巡りを堪能出来る。
また、麓から観る石垣群には感動すら覚え、城マニアは必ず訪れると言われる城址である。
時期によって登山できるタイミングが異なるので必ず確認して向かうよう注意していただきたい。


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