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歴史



三木城は、別所則治(べっしょのりはる)が築城した城だが、築城年代は定かでは無い。
だが、三木戦史によると明応元年前後に築城したと云われている。
則治は一度没落した播磨守護:赤松氏の再興に尽力すると、その後も赤松氏の勢力拡大に貢献するとこの地を与えられ、三木城を築城した。
その後、播磨は乱世を迎えるも別所氏は三木城を居城とし乱世を乗り切る事となる。
永禄十一年、別所氏は織田信長に助力すると西播磨に侵攻を開始し、勢力を東播磨から西播磨まで拡大させると大名格となる。
しかし、天正六年に別所氏当主:長治(ながはる)は急遽織田氏を離反するとその織田氏の対抗勢力であった毛利氏に寝返ると三木城に立て籠もった。
更に、小寺氏、荒木氏も織田氏を離反すると織田軍大将:羽柴秀吉と対立した。
秀吉は翌七年から三木城の囲みを強化すると兵糧攻めを行い、半年もの間三木城内は飢えに苦しむ事となった。これが世に言う「三木の干殺し」であった。
長治は城兵の助命と引き換えに自刃すると、三木城も開城となった。
三木城落城後も城は使用され続けるも元和元年の一国一城令によって廃城となった。


現在


現在、三木城址は上の丸公園内に遺構を残している。
公園内には、模擬城壁や本丸跡の曲輪や「かんかん井戸」と呼ばれる井戸跡などを残している。
三木の干殺しで有名な城址の為か、園内には無数の祠や石碑が祀られている。
本丸跡地には、別所長治の辞世の句が祀られており、その跡地横には長治の銅像も建てられている。


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